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2016年5月19日木曜日

「読む・書く・残す」探求ゼミの少し長めの感想。

先週末の土曜日、「読む・書く・残す」探求ゼミ 第2期に参加しました。
面白かったので、感想を書いとこうとブログを開いています。

この講座は、けんちゃんが主催で、大谷隆が講師で、主には参加者一人が持ってきた文章を読むということをやります。わたしは昨年の12月以来の久しぶりの参加で、今回初めて文章を持ち込みました。

読むということ以外の割りと長い時間、隆は話をします。それは、隆自身の文字についての最先端を話していて、それをここになんとか書こうというのはちょっと無理という感じなのですが、その中でちらちらとわたしの記憶に残っているのは、書くところまで行けないか、行きたい、というような話です(講座外でもその話をしたので講座でどれくらい話してたのかよくわかりませんが)。この講座、通称「書く講座」ですが、講座では読むばかりで書くところまで行きません。そんなところで、講座でかなり言葉で説明されている「読む」というところから、「書く」ということを言葉にするみたいなところが、その行けないか、というところだったのかなぁ、と今書きながら思っています。

そんな話を聞きながら面白いなぁと思ったのが、「でも、うちは書けちゃった」とほくほくする気持ちで、わたしは講座というきっかけがあって結構長いこと考えてたことをなんとか押し出すことができた。これは、もちろんなんか形にしたいと考え続けていたこともあってできることだとは思うのですが、去年の3月くらいからちょくちょく講座に出て、他の文章が読まれているところを見たり自分が読んだりしてくる中で、ここで読まれるということがあるならなんとか文章にしようというのは最後のところで結構大きかったなと思います。

だから、書くところまで行くという話をしたときに、この講座が文章を募集している時点でもう書くところまで連れて行かれている、一面的にはそう思ってます。

「書くところまでいく」。という話が面白いのは、もう一つわたしの場合には描くところまでいけないか、そういうことを考えてきたからです。わたしの場合は絵とか、他の立体とか映像の作品を以前作っていて、何年か前から作れなくなり、ずーっと作りたいなという状況があったなかで、だからといってがむしゃらに描くということもできず、結果的にとっていた道が絵を見るとか、本を読むとかそういう道でした。

書く講座があって書けた今回読んでもらった文章は、わたしの絵を見るというところから始まり、絵はわたしにとってどのようなものということに触れ、最後ほとんど描くというところまで行っていると思います。実際の絵を描くということは書いていてもできないので、描くことでどこまで行けるかどうかはこれからですが、この文章のイメージがまとまったころから、本当に少しづつ描くことができるようになってきたので、ああ、一仕事したかもしれんと思ってます。

絵とか作品を作れなくなったとき、それは言葉によって引き起こされた気がします。それまでは、わたしは頭の中に浮かぶイメージとか感情の感覚の中に強くいたと思うのですが、言葉が何故描くのか作るのかと強く説明を求めたときにしっかりと立っていられないことに気づいてしまった。雰囲気みたいなところでは自分を納得させられる範囲にいたのですが、あの時はほんとに足払いにかかってスコーンときれいにこけました。最初描き始めたときの、楽しいとか、描いくことの感触とかそういうところからえらく遠くまで行ってしまっていたんだと思います。それで、あしの裏にしっかりと感じていた確かなものは一旦全部なくなって、頼るところのなさの怖いくらいの状態から描くとか絵とかを考えてきました。わたしは言葉でこけたから、起き上がるにも言葉が必要やったんかなと、今となっては思ったりします。文章が書けてしまってから、絵を見るという中の言葉の部分ができたような、絵と言葉が近づいたような気がしています。



感想、というところから随分遠くに来たきがしますが、読まれるというのは嬉しい経験でした。思いもよらないことを言われるとか、その文章の特徴を教えてもらえるといいうようなこともあったけど、全体としては自分の書こうとしたことはかなり伝わっているんだなという印象が強くて、そのことが驚きでした。みんな別々の言葉でどんなふうに読んだかとか思ったかとか言ってくれるけど、なのに、「ああそうそう、そういうこと。自分より上手いこと言う」と思ったり、書いたときに迷ったこと、フッと頭によぎって書きはしなかったことが文章ににじみ出てるようでそれを言ってもらえたり、それは不思議な経験でした。





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