大きい仕事は今はなかったので、いろいろやりたかったけど出来なかったことをやり、更にここぞとばかりに数年の間、忘れたり、生かしたりしながら描こうと思ってた絵の方を向いてみた。
ぱーちゃんが日記で「言葉の表出冬合宿」に関して、書くことに関する筋肉がちょっと鈍った感じがして、何か書くには2泊3日くらい必要だったように思う、というようなことを書いていたけれど、1日2日とひとりで過ごすうちに、自分にとって今そのような時間を過ごしているのかもしれないと思っていたりした。
絵は描き始めていた、けれどこれを作品にしていくのは、どうもかなりの力が必要だったらしい。
描きながら、何度も考えていたのが絵画と言葉との関係で、以前一時期言葉にむかついていた。だって、絵は絵だけで完結しない感じがあるのに、言葉は言葉で完結しているように見えていたから。絵を描いて、絵を見て、次に出てくるのは言葉で、絵に絵で返すということは稀。言葉の後には言葉がある。
言葉、それ一つだけでやっていけるのはなんかかっこいいし、そもそもうちは絵と言葉と2つ使えないといけないかよ。みたいな。そこまで具体的に考えもしなかったけど、なにかわだかまっていた。すっと伸びがしたいのに、言葉の使い方がわからなくて頭、抑えられているような。
絵をやってなかった間に随分言葉でいろいろやって、そういう気分は後退していった。
そういえば、こないだ「絵を語ることは絵を描くのにとてもよく関係が持てる」とこないだある文章に書いた。もう少し前の文章では、「表現したいと思う何かが自分に生じたとき、おそらくそれはどんな表現手段とも関係のない形で心に生じる。それを何らの表現手段に結び付けるとき、そこには何が起こっているんだろうか。」と書いた。
ほんとうに何で、その形式を選ぶんだろう?
それは今はわかんないんやけど、言葉は絵を描こうとする人の頭抑えるようなものではく、時には抑えるかもしれないけど、絵をただ描くよりも細かく見せてくれることがある。
なんでそんなことが起こるんだろうと思うけど、表現される前の状態のものが表現形式に関係なく心に生じている。おそらくそういうことが起こっているだろうと思っていて、そうだとすればなにか2つ以上の表現を使うことで見える世界が変わっていくということもなんとなく納得できる。
描いては書き、そんなことを考えながらの3日間だった。
言葉の後には言葉がある。とさっき書いたけど、ここまで書くと言葉の後にある絵もある。
そういうことにもやっと目を向けられる。
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