ページ

2017年3月6日月曜日

聖書と絵画。

去年から少しずつ、聖書を読んでいる。
ずっと西洋美術を勉強してきたわけで、
聖書を知らないってそろそろどやねん、
読んだら西洋美術がもっと分かるかもしれない、
と思ったからだ。

あんまり簡単に読み進められる書物じゃなくて、
随分時間が経って少ししか読めてないけど、
やっと気づいたのが、
宗教画の前に聖書が、思考が、言葉があったということだった。
聖書があり、
もし書物にまでなってなかったとしても
聖書のもとになった口伝の物語があり、
そしてキリスト教の宗教画が生まれたんだろう。

口伝の物語の前には、
視覚的現実があったじゃないか、とは言えるけれど、
それは絵画ではないし、
経典の前に、その経典に関する宗教絵があった、とはやっぱり考えにくい。
このあたりは、自分が絵の範囲をどこまでとるかに関わって
くるような気がする。

話を戻すけれど、
聖書があり、そして宗教画が生まれたという、
気づいてしまえば、当たり前のことに、
これまで十分に気づいていなかった。
私の前にまずあるものは絵で、言葉は後景にあった。
絵から聖書に入っていくように、絵から言葉を導こうとしていた。

そして、もう一つ、
(いや、「それは」、と言った方がいいかもしれない)
絵画が純粋に絵画だけで成立して欲しい、という、
絵画が絶対的なものであって欲しい、という、
いつ思い始めたのかわからない、
どうしようもない夢みたいなものが、
そんなふうに思わしてきた気がする。

でも、絵画が絵画だけで成立するような世界観が持てるとすれば、
わたしは言葉を完全に失っていて、
少なくとも、こんなふうに思っていたことも認識できなくなっているだろう。
実際には、そんな状態は望んでないわけで、
どちらかというと、他のメディアへの怖れに近いのかもしれない。

宗教画というと、自分には分野として古臭いものだった。
時代的な古さが単純にその理由だ。

でも、聖書から宗教画を描いたという試みは、
ラディカル(革新的/根本的)だ。

言葉で表された、
現実には見たことのない、
存在しないなにか、
世界の認識を絵にしようとする試みは、
見たことのあるものを、別の場所に絵描く、
という行為からの大幅に飛躍に思える。

形而上学的世界を絵描く、と言えばいいんだろうか。
形而上学が実はよくわかってないんやけど。

そして、そのことは意外にも自分が
絵画として取り組もうとしていることと
あまり変わらない。

いろんなものを読んで、話を聞いて、
もっと包括的に言えば生きていることで、
世界や、人間自体の
現代的な認識を絵画にできないか、
多分、そのあたりのことを考えている。
少なくとも、今描いているものは、そういうものだと思う。


そこには、もちろん言葉もあるわけで、
そのことをわざわざ言わないといけないくらいの
思考や経験を経てきたんだろうけど、
そのことはまた書けることがあれば。