ナンシーちゃんにやっとちょっと近づけたと思った3回目です。
いつもどおり大谷隆のレジュメはヒットし、山根は不発です。
もう、大谷氏は批評家です。
書く限りは上手く書きたい(どこまでも読みたい)ので悔しいです。
(レジュメはまるネコ堂ゼミサイトにあるのでよかったら御覧ください。)
まあ、でもやっぱり好きなところ書き残しとこうかなと思います。
長いけど引用します。
この限界の上で生起することが神話の途絶を要請する。それは、ことばや言説あるいはお話がわれわれをこの限界の彼方(ないし手前)に集結させるなどということが、もはや言われないように要請する。しかしその分それは途絶それ自体がその特異な声とともに耳にされるということを要請する。この声は、途絶によって残された神話の声の切れ目、あるいは跡のようなものである。
その声はそのつど、離れたところにいて、話し、朗唱し、時として歌う唯一の声である。彼は起源と終末‐実は起源の終末だが‐を語り、それらを舞台にかけ、また自分自身に登場するのである。さて彼は、舞台の縁に、ぎりぎりの縁に来て、自分の声の限りで語る。あるいはわれわれのほうが、おっとも奥まった端に身を置き、その限界で彼に耳を傾ける。いっさいは、一つの声のこの特異な出現の周りでの、実践的、倫理的、政治的‐どうして精神的と付け加えないでいようか‐配置に関わっている。あなた方は、つねにこの声から新たな神話を作り直すことができるだろう。だがこの声、あるいは別の声が、ーわれわれを限界へと送り返すことで-いつまでも繰返し神話を途絶させるだろう。[129‐130]
この人が一つ一つの言葉をどんなふうに使っているのか、正直言って引用が不適切なほど、章の初めからいくと独自の言葉の印象を形成していると思う。そういう意味でも、この人は文学的なのかもしれない。そして正直言って、この文章もわからんなと思うところはちらほらある。
でも、このあたりの文章は、話す人(あるいは書く人)と、聞く(あるいは読む)人の関係を他より詳しく言っていて面白い。
限界へ挑戦する文学者、芸術家というのは割と持ちやすいイメージだし、それはもちろんそうなんだけど、聞く人や読む人が限界でそれをやるというのは改めてそうだと思う。
聞く、読む、あるいは見るという行為が、自分が声をだそうとするのと同様に限界だとということ。もし世界に対して誰かが新しい、自分の声の表現をしたならば、そしてそれを見た人がその表現を分有した(相互に勝手にわかった)と思えるなら、かなり二人とも限界にいるはずだ。
表現に歴史というよりかは変化というものを認めるなら、作品というもののあいだ、あいだに「見る」という新たなものを自分の中に通わせるような行為がー通い合わせるなんて生易しくなくて、自分の考え(世界)のネットワーク曲がっちゃったよ!なんて時もあるけどーあるんだってことを意識でき、またこれは自分のなかで「制作」だと思ってたものが変化する感じもある。
大谷氏の言っていた、書くことの受動性、読むことの能動性の話を思い出す。能動的に読んで、(その途絶から)あとは出るものを出すしかないという制作。
というこの文章も、読んで、ゼミを終えて、「なんか、書きたいよ、書きたいよ」ってそわそわしながらパソコンの前に座って書き始めました。
でも、正直言って、こんなことを書く予定はなかったので「制作」というところまで書いて、「これ難破してないか?」みたいな戸惑いと、「制作ってもうちょっと違うものイメージしてなかった?」って戸惑いと、「そういう感じもあるね」って納得感(戸惑い多め)。見たり聞いたり読んだりしてーあるいは生きたりしてーいろんなものを限界で分有して、自分の中にはおいとけないくらい溢れ出てしまうものを外に出す制作。
制作(書く)ってことの意味が変っていくような本なのかなという気がしてます。
次回も楽しみにしてます。