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2017年8月1日火曜日

「バベルの塔」展 ブリューゲル《バベルの塔》(1568頃)

ボイマンス美術館所蔵ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルランドの至宝―ボスを超えてー、を見に行った。

ビーテル・ブリューゲル1世作《バベルの塔》(1568頃)、この絵が「バベルの塔」という言葉をこんなにも有名にした、と勝手に思ってきた絵だったから見にいきたかった。

展示の順序から行くと、一番最後の絵だけど、まず《バベルの塔》のことから書こうと思う。このブログ一応3部続きです。

-「バベルの塔」展 ブリューゲル《バベルの塔》(1568頃)
-「バベルの塔」展 展示について①ヒエロニムス・ボス
-「バベルの塔」展 展示について②ボスからブリューゲルの《バベルの塔》へ

実物を見れば誰もがいい絵だと思うような絵だと思うから、何か語ることが野暮だと思ってしまう。それくらいよかった。

「バベルの塔」と言えば、旧約聖書の一節だ。ブリューゲルはもちろんこのことを知っていて描いていたはずだけど、日本人であれば「バベルの塔」といえば古代の人類が完成できなかった巨大な塔のことで、そういうなにか無謀なことを画策することの比喩くらいに思ってる人もいるんじゃないかと思う。まあ、自分がそう思っていたんやけど。そんなふうに思っていたことの原典がこの絵なんじゃないかと思う。

聖書の一節を知らなくても絵として面白い。これは本当に見たことのない巨大な塔だ、と思う。現代ならそこそこ巨大な建物はあるけど、それでも自分が現実には見たことのない巨大な塔が描かれている。500年近く前ならなおさら、想像もできない巨大な塔をそこに見ることができる。

この絵、実はそんなに大きくない。59.9×74.6㎝。巨大なものを描くために、こんなに小さなキャンバスを選ぶのは、ひとつの発見だったんではないかと思う。3倍に拡大した印刷のコピーも展示されてたけれど、(印刷の限界があるのでなんともいいにくいけど)迫力が増すわけではなかった。ブリューゲル自身、この作品の前に3倍の大きさの「バベルの塔」を制作していたらしく、最終的にたどり着いたのがこの大きさだったようだ。

なんでそんなふうに思うのか、はっきりとは言えないけど、大きな絵の前に立つと、視界が絵に覆われるからか見るときに絵の中の世界と自分の世界が近くなる、あまり大きくないと本を覗き見るような感じで少し遠さがでるんじゃないかと思う。それと、どうしても絵が大きいと見上げる形なっちゃうけど、この大きさだと普通に絵の前に立った時に、ヘリコプターにでも乗って巨大な塔を見物に来ているような絵に現れている視界がそのまま得ることができる。

もひとつ、上手く説明できない。

ちょっと違う話やけど、この比較的小さな絵にかかれた緻密さは魅力的だ。この人は、おそらくものすごく現実的に考えて、しかし実際には今でも存在しないくらい大きな塔の絵を描いた。塔を建てるとはどういうことか、どのような形状ならありうるのか、建てるときには人々はどうするのか、資材はどこから来るのか。働いたり暮らす人々や、建設なんかに必要な道具が小さくとも正確に緻密に描かれる。何のための塔だろうか、ここで何をするだろうか、現実に本当に建ててしまうとしたら、と考えられている。未だ、建築中のこの塔の真ん中あたり、教会のようなものがあってすでに使われ始めている。万年建設・修理中ながら使われているサグラダファミリアを思わせる。そんなところにも妙なリアリティーがある。

緻密さは魅力的、と言って近くでじっくり見るだけの絵だとも思わない。会場で、数メートル離れたところから見てもかっこいい。そこでずっと見ててもかっこいい。

しかし、離れて見てもかっこいいということを、ブリューゲルが狙ったかどうかというのはよくわからない。展示の前半、オランダの絵画というのは比較的近くで見ることを前提とされた印象があり、それは近くでしっかりと見ないとわからないような緻密な画風だったからだ。

だから、緻密さの源はある程度オランダという場所の影響があるんじゃないか、と思う。人間を描く、近くの建物や木々を描くというというレベルで持っていた緻密さを、巨大な塔を描く、空から地上を眺めたような遠景の風景画を描くということに対しても全く薄めずやってのけた、その正確さが遠くから見てもかっこいいということを出現させたのかもしれない。そして、このサイズ感は緻密さを保ったり、その効果を最大限に発揮する最大のものなのかもしれない。


本当に魅力的な面白い絵です。聖書関係なく面白い、と思って聖書を読んでみたけど、この絵に描かれてるシーンは神様は関係なくて人間が勝手にやったことだった。そういう意味でも親しみやすいのかもしれない。

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