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2017年5月30日火曜日

絵画で描きたいのは言葉のところの助動詞・助詞(「から」、「を」、「で」・・・etc)

5月の「絵を描く会」はテーマが「言葉・文章」だった。
最初、描こうと考えていたのはある単語、例えば「コップ」とか「夢」とか。でも、なんとなく自分が描きたいという気にならなくて、最終的には文章(太宰治『斜陽』の冒頭)を選んだ。

単語を描くと思ったときに、あまりわくわくとした感じも確固とした感じも不思議と持てなかった。もう一つ思ったのは、こういう単語(あるいは名詞)は、それ単体で自分の中での確固とした像があるというよりも、描くその時の場所とか状況に割と大きく影響を受けるんではないかと思った。例えば会場の5月のまるネコ堂で描くのと、秋の鴨川のほとりで描くのとでは随分違うものを描くのではないかと思う。

会を通して、単語といっても「から」とか、「といっても」とか、「で」とか、助動詞・助詞というそういう言葉の方が自分のなかで確固としているのではないか、と思えてきた。ただ実際に「から」のみを絵に描くこと自体は非常に難しい。「から」単体というのはそれこそとまどうけれど、どこに行っても自分の中に「から」自体は比較的かなり確固とある感じはする。

そんなことを考えていて、現代において例えば「人間」を描き表したい人なんていないんじゃないかと思う。人間なんてのの表象は棒人間でいいんだから。絵画で描きたいのは、言葉でいうところの助動詞・助詞とされているようなもので、「人間『を』」、とか「人間『で』」、とか「人間『から』」であったりするところの『を』『で』『から』のようなものなんだと思う。多分、『を』『で』『から』のようなものが絵の雰囲気とか呼ばれるようなもので、言葉でいうところの文体であるように思う。

棒人間でいい、なんて書いたけど、確固たる『を』『で』『から』を描く人が持ったとすれば、逆算してその時その人間はこうでないといけないというのは確定していくと思う。だから棒人間は多くの場合描かれない。

で、実際言葉でいうところの助詞や助動詞はどのように絵に現れるのかといえば、現在探索中(笑)。一つ思うのは画材の選定は随分と影響しているように思う。水彩の透明感と油彩の物質感は全然違う印象を与える。あたりまえのことだけど。油彩の内部にしても、木に描くのか布(キャンバス)に描くのか、どのような順番で描くのか、などなどがすべて印象というところに影響してくる。あたりまえだけど・・・

この辺は、探索中というか、やっと登山道が見つかった感じのことだけど、絵を見たときに、「これは肖像画で、宮廷画家の○○が描いた、なんとか2世です」ってアプローチとはまた違う道で、絵を立体的に見ることができないかなって思ったりしてる。


まあでも、こんな感じでモネの絵なんかみるとめちゃくちゃ面白い。面白いというか、この人の後期の絵はほとんど助詞のみで表現したような絵だ(それは『へ』に近い、そしてなんと名詞にまで到達させない)。彼の絵はまた一度ちゃん見直したい。