「大エルミタージュ美術館展ーオールドマスター 西洋絵画の巨匠たちー」(兵庫県立美術館)を見に行った。
ペーテル・パウル・ルーベンスの2枚とレンブラント・ファン・レインの1枚がおもしろかった。
ルーベンスの2枚は、「王太子の誕生」(1622)、「マリー・ド・メディシスの戴冠式」(1622)でそんなに大きくない絵。「フランダースの犬」で印象があるような大きい作品ではなくて、描き方も習作かと思えるようなラフな感じ。描かれた主題とか正直言ってよくわからないけれど、人物の描き方がすごい。3Dかい!と思うくらいの立体感と奥行きで、絵画なのに人間を彫刻を作るかのように立体的に捉えて、しかもその感じを描ききってしまっている。ルーベンスは今まであんまり興味がなかったのに、ああやっぱりすごい人なのかと思った。
レンブラントの「運命を悟るハマン」(1660年代前半)は、絵だけ見てもさほどなにも思わなかったけれど、タイトルと解説を見てちょっとびっくりした。ハマンは旧約聖書「エステル記」に登場するある王に引き立てられた男で、ユダヤ人虐殺を企てる、でもそれに失敗して自分が殺されてしまう。ユダヤ人迫害の計画は取り消され、ユダヤ人には復讐する機会も与えられる。この絵は失敗したことに気づいてしまったハマンの絵だそうだ。
わたしはエステル記をたまたまこの夏読んだんやけど、印象に残っていたハマンは悪い奴だった。だからいかにも悪そうな奴が、ある種の正義に負けて「しまったーやられたー」みたいな安っぽかったり、時代劇みたいなわかりやすいシーンを思いえがいてたんやけど、レンブラントの絵は全然ちがっていてびっくりした。
脚色された悪者、ではなくてハマンが普通に一人の人間として描かれていた。突然に、でも一瞬で死まで悟った人が、何を思うのかはわからない、けれど、こんな顔をするかもしれない。そう思わせられる絵だった。聖書には死を察した後ハマンは命乞いをしようとしたようだ、という程度の記述しかなく、ハマンがどう思ったかほとんど表現していない。そんなのわざわざ書かなくても、勝手に嘆いたり、怒ったり、みじめな命乞いをしただろうとわたしは思ってたようだ。そんなことさほど意識すらしてなかったので、このたんたんとした表現にびっくりしてしまった。聖書を読んでいると、聖書側の立場として登場人物を見ていくわけで、ハマンのような人は薄っぺらい、というかストーリーが濃くて人物描写が希薄なのかもしれないが、これはハマン側から見てハマンを立ち上げたような絵だった。あのシーンの絵なの!と思うとイメージが塗り替えられてぎょっとする。
聖書とか、キリスト教をどういうふうにレンブラントが捉えていたかわからないんやけど、なんでこんなシーンを描いたんやろうか。「エステル記」を読み直してみたけど、この章は苦手。善悪の感覚の違いが露骨に出る。例えば、ハマンは悪いと思うけれど、ユダヤ人迫害の計画は王も特段反対はしなかった。でも、結果的に王がハマンを殺して、王がユダヤ人からの復讐も認めてということになっていって、ユダヤ人としては状況はよくなるんだろうけど、そんなに素直に王のことを認められるの、とか考えてしまうから。
展示としては、「大エルミタージュ美術館展」って「大」じゃなかったらどのくらいなんやろ、とか、なんで「大」なんやろう、とか考えちゃう。ちなみに今回は85点を展示。
エルミタージュ美術館、なんと所蔵が絵画だけで1万7千点。全部で310万点。このへんの美術館の所蔵点数とか知らんけど、きっとすごい。きっと美術館というもののスケールが全然違う。
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