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2018年3月2日金曜日

「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」の感想。

「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」(京都近代美術館)を観に行った。

最終週ということもあってか平日3時を過ぎても混んでいたけれど、着いた時にはチケット購入待ち行列用のコーンもちょうど外されてところで徐々に見やすくなっていった。

つわりは相当よくなってたので、大丈夫かなと思ったけどやはり体がまだ疲れやすく「5日本人のファン・ゴッホ巡礼」のセクションはほぼスルーしてゴッホの絵を中心に見たけけど、随分前(2005年)に大阪の国立国際美術館で見たゴッホ展とは違った切り口のゴッホが見れて面白かった。

一番大きく印象に残ったのは、ゴッホの日本好きにかなりの焦点を当てていること。今でいう日本オタクというか、日本のものが好きでいろいろ見てるうちに想像の日本がかなり確固としたものになっていき、作品に大きな影響を及ぼすまでに至ってしまったよう。

ゴッホは南仏のアルルに移住して、もうここが自分にとっては日本だから日本に行く必要はないみたいに思ってたらしい。日本人からすれば、いやいやいろいろ日本じゃないでしょ、と思うけど、そのくらいまで想像は具体的だったようだった。

ゴッホは、描く対象として特段に日本のものに固執したわけではない(花魁の模写などしてはいるけど)こともあってか、私はぱっとみて日本趣味だとはあまり思わないけど、1点だけちらっと見て日本人が描いた油彩風景画に見えたものがあった。

「雪景色」(1888年)は、やはりアルルの雪景色を描いたもの。よくよく見ると、やっぱり西洋の印象が捉えられるけど、一目見たときは日本人が油彩で日本の風景を描いた、そういう絵の一枚という印象があった。その印象が何から来てるのか、はっきりとは言えないけど強いて言えば色使いや木々の枝ぶりの描き方のように思う。当時まだゴッホは日本人の描く油彩の風景画を見ていたとはあまり思えないし、浮世絵や当時入手した資料から「日本人的に油彩で景色を描いたらこうなる」というところまで再現してしまったのか、と思うとすごい。


もう一つゴッホについて感じたことは、この人は多分絵画を新しくしようとかそういうことにはあまり興味がなかったのではないかということ。絵画を新しくするというのは、西洋でこういうものが絵画であるという一定の枠があるなかで、いやいやこれも絵画ですよ、という新しい領域を提示してそれを認めさせるということ。例えば、ゴッホが影響を受けたという印象派の絵画なんかはそれ以前のものに比べ大雑把に言えばかなりラフに描いているので、当時はそんなものは絵じゃない、まだ描き切ってない未完成の絵じゃないかとか言われたらしい。

ゴッホはどちらかと言うと、新しいなにかを求めるというより、かっこよく描くとか、おもしろく描くとかそういうことに興味があったんじゃないか。そこに探求とかがないわけではもちろんないけれども、そもそも乗り越えなきゃいけない絵画の枠みたいなものを自分のなかに持たなかったのかもしれない。

ゴッホの絵は、印象派のタッチも取り入れているし、浮世絵の構図や色の塗り方(浮世絵は版画だから塗るってのは変だけど、あのべた塗りの感じ)も取り入れている。自分のイメージに合えばかっこよく、おもしろくしていくのに仕えそうな要素はある種節操なくなんでも取り入れていたんじゃないかと思う。今までに無い絵を描こう、というよりは、今まで見たものを気に入れば、自分のイメージにかなえば、なんでも組み合わせることで、そのこと自体が新しく見えてしまうようなそういう人だったんではないか。

なんでもとか節操なくとか書いたけど、浮世絵の影響にしても分析すればもちろん要素を抽出することはできるけど、絵単体を見てそのことにあからさまに目がいってしまうような、そういう中途半端な使い方はなかなかしない、自分がどう使うのか考えてあたりまえだけどちゃんと絵として完成させている。今更ゴッホにすごいというのかって感じやけど、その辺はすごいなと思う。
 
ちょっと書き過ぎかもしれないと思いながら、展示に行っての感想です。またゴッホ展あれば見たいし、確かめたいです。


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