京都国立博物館で開催中の国宝 一遍聖絵と時宗の名宝を観に行ってきました。
春の京都国立博物館といえば大混雑というイメージだけどガラガラ。かなり大きい美術館なのでそこそこ人はいたと思うんですが、収容力に対して人が少ない。
一遍、人気ないなぁとちょっと残念に思う。これが法然上人絵伝展とかだと人が来そう。
けどゆっくり観れるのは嬉しい。
『一遍聖絵』(1299、正安元年)円伊
一遍聖絵。前から好きな他の絵巻物に比べても格段に面白いと思っているこの絵巻のなにが面白いのかちょっとでも言葉になればと思いつつ観てました。
物語とか背景については歴史学者の網野善彦がいろんなところに書いていますが、特に「日本の歴史をよみなおす」に書かれているのは読みやすくまとまっているしおもしろいです。
この本には相当影響を受けているのですが、これをめっちゃざっくり紹介すると非人をいきいきと描いている。非人というものをひとまとまりな均質なもの、として捉えれしまわずに、一人ひとりとして実態を描こうとしています。あんまりこの本のことを書こうとすると何も書けなくなりそうなので、詳しくは本の方を。久々に目を通すとめっちゃおもしろかったのでオススメです。
歴史的に重要な絵巻だということを知らずしても、絵自体がやっぱりおもしろいと思います。なんでだろと思うんですが、ばらばらにいるはずの人々をその場にいるという関係のなかで自然に配置するのが上手い。
絵の中心の置き方が、主題の置き方が、特殊と言っていいと思うんですけど、それをちゃんとやってのけてしまっている。主題というとあるシーン、例えば何か儀式とか奇跡の瞬間を描こうとして、そこを中心に周りの状況や背景をどうするか考え描写していくという描き方があると思うんですが、この人はそんなことはしていない。
ここでは踊り念仏なんかをやっているところが大きな主題に見えたりもして、実際ひとつの描きたいことではあるんですが、この筆者の狙いはこの踊り念仏が行われているその場所全体で何が起こっているかを描こうとすることにあると思います。念仏の舞台があって、ちょっと周りで塀に囲われているかもしれないし、道や川をはさんでまた通りがあって、そこにも人がいてという、その辺まで音が聞こえてたり、一遍の雰囲気が感じられたりということがあるくらいの広さ全体の描写を緻密にやっていると思います。
そういうふうに考えたときに、人の配置というのが自然になっている。主題という中心をわかりやすく盛り上げるために配置された人々ではないから、なんでここにいるんだろうとか、どういうひとなんだというのはわかりにくい。だけど、なんとなくそこにも人がいそうで、隣同士は直接的に関わって何かをしているわけではないけど、隣に人がいるという影響をうけて何かをしているし、間合いをとっている。
その間合いの取り方や、そういうときの人の姿勢というのをとてもうまく描けるんだろうと思います。ちゃんとした間をとるので、何も描かれていない、人がいない空間は単純に省いたというよりも、全体としてみたときにそこには人はいなかっただろうなという気にさせられます。
一人ひとりの描写のおもしろさもあるんですが、全体としての躍動感がすごい。群衆の中心を見ても、ちょっと人通りが少ないそこで座っている人を見ても同じような濃度を感じます。
それと、一遍というひとはパンクというかポップというかカリスマというか。ほんとに魅力的な人だったんだなというのは、見てて楽しくなります。
また踊ってる。また踊ってる。宗教というもののイメージが少し変わります。
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