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2016年11月17日木曜日

肖像画としての一遍聖絵。

肖像画(portrait)というもの歴史が気になって何か本がないかと調べたことがあるけれど、とくにめぼしい本は見つからず、諦めた記憶がある。肖像画というか、人間をどのように描くのかということについては、西洋の美術史上でも特筆されている作品はあると思うが、自分として流れを追うようなことはできていない。

最近ずっと肖像画を描こうとしていて、その中でずっと頭にあるのが「一遍聖絵」だ。一遍聖絵は一遍の生涯を描いた絵巻である、というのは言われているけれど、通常肖像画だとは言われていないし、自分でもなかなかそうは思えなかった。肖像画というのは、一般的には「モナリザ」のような上半身を表した構図を持ったものだったり、せいぜい全身が写ったものだと思う。肖像画(portrait)というものの意味が構図にあるとすれば肖像画を考える過程で一遍聖絵を考えるのは的外れかもしれないけど、まだそんな気がせず、人をどのようにして描くかというところまで射程を広げていい気がするので考えている。

一遍聖絵をなぜ肖像画として考えるかというと、今描こうとしている肖像画のコンセプトが描かれる「その人」というのは、その人の見たものや会った人や、その人の背景にある場所や環境、そういうものから見えてくるというものだからだ。例えば、「その人」を描こうとしたときに、「その人」があの人と一緒にいたということが重要だったり、「その人」がその場所にいたということが重要だったりもするそんなものとしての肖像画を描こうとしている。コンセプトと自体は随分前に隆と考えたんやけど、随分絵にするのに時間がかかっている。

そんなふうなものを肖像画として描こうとしたときに、一遍聖絵はひとつの完成された形のように思える。一遍が歩いた景色、出会った人、一遍に会いに来た人。なんとなくまわりに集う人。いろいろなものとの関わりの中で、絵を描こうとした人には一遍がどのように見えていたか。彼というものの背景が前景にあらわれ、そのことが彼を語るようなそういう作品だと思う。彼という人をそのままに描こうとしたときに、そのようにしか表せなかったと言ってもいいのかもしれない。

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