6月の講座の一日目は「音読」の時間だった。
【ご案内】読んで馴染んで試して鳴らす「音読」の時間
音読といえば自分にとって小学校のときに宿題ででたあれで、家に帰って声に出して読んで、母親に読んだよサインをもらって学校に持っていくというやつで。
この講座に出て、面白かったことは、音読が読むということの一種であったとわかったこと。それは自分にとって黙読でやるべきだと思っていた側面を拡大してくれた。そんなことはさんざん講師のけんちゃん(小林健司さん)は言っていたのだけど、けんちゃんにとってであるという思い込みと、あとは声に出すということに対して聞いてもらうという側面(発表性)を見過ぎていたため見過ごしていたことをしっかり説明してもらえた。
音読することは、毎回変わっていく。何度も黙読すればわかっていくことがあるように、何度も音読すればわかることがある。毎回読み方を変えて、しっくりくるものを探してみる。久しぶりに読んでみた本がすっかりちがって読めることがあるように、久々に音読した本の声の出し方がすっかり変わってしまうこともある。
以下はレポートとは言えないけど、講座序盤にいろんなテキストを声(音)を変えながら何度も読むけんちゃんを見ているとふと大きい喪失感に落ちていった。10年以上前に、ホームステイしていた家の当時10歳ほどだった男の子はもうすぐteenageだと喜んでいたから10歳ほどだったと思う。彼が、去年の秋に若くして亡くなった。自分より10才ほどは若い彼が亡くなったのはショックだった。ただ10年以上、個人的にはやりとりもなかった彼の死は悲しみや喪失感からは遠いもので、生きていても死んでいても自分の生活に影響がないような感じがどう彼の死を捉えていいのかわからないままだった。音読しているけんちゃんを見たときに、ふと彼のことが思い出されて。彼は、見た映画や舞台やなんやらを自分一人で再現するのが好きだったのか得意だったのかわからないけど、やりまくっていた。セリフはおそらく相当な精度で覚え、もちろん一人で全役こなし、背景描写も自分で説明。たぶん時間さえあれば2時間の映画を4時間くらいかけて全編ひとりでしゃべり通したのではないかと思う。ああ、あれがもう一生見れないのか、と思うと急に寂しさがあって、それが彼の死に関して初めて感じた寂しさだった。
このこととけんちゃんの音読とどうつながるのか、安易にはしたくないけれど、声に出す何かということはまああるだろうと思う。あと、楽しくてやっているという感じは似ている感じがする。人が聞いているから喋るけど、半分は一人で喋っていたような、感じとか。彼は声に関する仕事につきはしなかったけど。
そんな出来事にしばしびっくりしながら、読む時間がはじまった。
2つのものを音読した。
黙読・音読交えながら、何度も読んでいくうちに出したい声のイメージができていく。
まずは「浮雲」の冒頭。
声を出す主体は一人。この人は、高い位置から往来を眺めている。わりに騒がしい明治の往来。西洋の新しい文化が流れ込んで、新しいファッションを楽しむ人々の喧騒。私は高みの見物。食べ物屋の2階みたいなところだろうか。私はちょっと話すのがうまい。この往来の人々の気取った感じ、これを言葉にして聞かせてやろうと一芸を披露。
と、ここまで明確に言語化できてないけど、だいたいこんなイメージを持つようになっていった。音読という読む体験が自分を連れて行った場所。
そしてもうひとつは創世記の一節。
3つの声。ナレーション、神、アブラム。神とアブラムは舞台上にいる。神は天にいるわけではない。舞台上でアブラムと同じ高さに立っている。若い。自信にあふれる。日本でいえばちょっと前にいたんじゃないかと思う30−40代のNPO代表みたいなイメージ。さわやか。アブラムはちょっと神を疑っている、ちょっとうんざりしている。ナレーションはほとんど感情を込めないけど、節々でシーンをもりあげようとする。
だいたいこんなイメージ。
イメージをつかむということと、声を思ったとおりに出すということはまた別物で、そうそう上手くはできない。正直言って3つの声の使い分けとか、うんざりというか頭が大混乱。
最初の講義で、テキストの声を出すのは最初は怖い、飛び込む感じとけんちゃんが言っていた気がする。自分の普段出し慣れている声を出すのではないのだから。反面、それが醍醐味と。ああ、そこ、おじおじしてたらきっと楽しくなくなるだろうなーとおもって飛び込んでみることにした。
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