考えてないということに気づく。

2011年12月18日日曜日

「生きる。alive ! 2,011」という関西大学社会学部のイベントに12月10日に行ってきた。開催ゼミの学生の三好茜さんが誘ってくれたのだが、その三好さん自身が制作した『「あなたは・・・」2011』という映像の上映もあった。

その映像は3部構成になっていたようだが、最初の部分は見逃してしまった。街頭やイベント会場でのインタビューをまとめた作品のなかで、インタビュアーが「あなたにとって生きるとはなんですか?」と質問する部分があった。「美味しいものをたべること」「充実していること」「家族がいること」そんな回答があったと思う。

しばらくそのことは忘れていたが何日か経って、おいしい物を食べること、充実してること、そんなことは生きることと関係ないし、なんでそんな回答になるんだろうと考え始めた。
そして、そういえば「生きる」ってなんなんだろ、私はまだちゃんと考えたことがないと気づく。半日考えて出した結論は生きるとは存在することだと思った。おいしい物を食べれなくても、充実してなくても、家族がいなくても、存在する限り生きていることは覆せない。

そう考えていくと、インタビューに答えた人も今までの経験から考えても、ほとんどの人は私と同じように「生きる」とはなんなのか考えてないし、考えなくても生きていけるのだということがわかってきた。これは「生きる」ということに限ったことではなく、多くのことに関してだけど。

「あなたにとって生きるとはなんですか?」という質問は「生きるとはなんですか?」という質問とは違う。あのインタビューのなかなら、ほとんど同じように受け取られたかもしれないが、「あなたにとって」とつけることで、「生きるとは美味しいものをたべること」といったようなちょっと考えたらそれは生きるじゃないと分かってしまうような回答を容易にしてしまう。
だったらなぜ「あなたにとって」とわざわざ付けて質問したのだろうと思った。三好さんの意図はわからないが、それを使うことによってより、質問された人が生きるということをこれまで真剣に考えたことがあるかということをはっきりさせることになった。

生きるとはなにかを考えないで生きてきたこと、生きてこれたことに気づき、それについて考えていて結局一晩あまり眠れなかった。次の日、ある座談会を聞いていて多くのことについて「考えてこなかった、考えるのをやめた」ということを愕然を思い知ってしまった。

なぜ考えて来なかったということにこんなにショックを受けるのかわからなかったけど、考えて答えを出すことのほうがより幸せになれると信じているんだと思った。考えるほうがいいと思っている。いろいろな保留してきたことが、どっと押寄せつつあり怖くはあるけれど、このところの色々な出来事があいまって考えることへの堤防を崩すことができたようだった。