高級な中身とふにゃふにゃの装丁。

2016年10月11日火曜日

書くこと



ほぼ日の「吉本隆明の183の講演」をちょろちょろ聞いてる。
ページのトップに行くと、吉本隆明の顔写真などがあるわけでは全く無くて、なんかよくわからない鉛筆落書きのようなふにゃふにゃキャラがちょろんちょろんと動いてる。

この「ふにゃふにゃ」、なんなんやこれはとずっと思ってたけど、講演を聞いてたら本格的な思想小説を高級な装丁で出すのを批判しているところがあって(「作品に見る女性像の変遷」の最後の方)そうじゃなくて文庫本で出せばいい、こういう作品がおおっぴらに出てくればいい、と吉本が言っていました。

ふにゃふにゃ。
ふにゃふにゃ、だから、聞いたり、読んだり、したくなったりすることあるなと思ったりして、今さらこれはすごいデザインなのかと思いました。

ウェブに上げられているだけで、ハードカバーというよりはかなり文庫本的なものだと思うけど、ホーム画面が明朝体・写真入りの硬質なものやと全然印象が違う。それでももちろんファンは聞くやろうけど、これが公開された当初うちがあれだけ聞きたくなったかは怪しい。

「高度ということ、高級ということと低級ということが裏返しになるところまで高級さというのはやりきれないと、本当はだめなのです。」
「高級なものは高級だとか、高級なことをやっている人は高級な顔をしているというだけだったら、僕はあまり感心も何もしないです。だけどそこはなかなか吹っ切れないというのが現状ではないでしょうか。」
 と吉本は、続ける。
これを聞いて、でも自分が高級だと思ってやってるものは高級に見せたいと思うなぁと思ったりして、まだ「やりきれてない」のだろうという感じもある。

テキストだけ書いたら、作品だけ作ったら、それはもちろん「何か」だけれど、それをどう「実生活」とつなげるかみたいなところも、結構その人が現れるわけで、このブログのデザインなんとかしたいな、とこのところずっと考えてます。