チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』

2016年3月18日金曜日

演劇・映画

チェルフィッチュの『部屋に流れる時間の旅』をロームシアターに見に行った。

チェルフィッチュは2013年に『地面と床』、2014年に『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』を見たけれど今回のが一番良かった。



始まってから終わりまでずーっと、一度だけ役者が少しセリフを間違えたとき以外、会場はすごい圧力に覆われて一応80分の上演らしかったけど、別の時空にいるような、そんな時間だった。終わってからもしばらく時計を見なかったから、本当にあれが80分だったのかよくわからない。


すごく言葉が残る演劇だった。

喜んだり、悲しんだり、怒ったり、そんな感情を身振りや表情であまり表現しないからかもしれない。たんたんと発する一つひとつの言葉が波紋を起こし、それによって感情が起こったり、思い出したりする。

震災の話が出てきた。まさか、震災の話が出てくるとは思ってもいなかった。5年前の震災のあの日、あの1週間、あの1ヶ月。何を考えていたか、わたしはすっかり忘れていたけれど、そういえば何か変わっていくかもしれない。未来に期待していたことを思い出さされた。全く忘れていたけれど、その確かな感情をすくい取られて、捉まれたような気分になる。

震災のことだけではない。粗いサンドペーパーのように、わたしを引っ掻いていくような言葉が時々出てくる。自分というものを見つめつくして、心の底から掬い取った、そんな言葉のような気がする。


震災の4日後に震災とは関係ない喘息で妻をなくした男性、その妻の幽霊、そして新しく恋人になっていく人。描かれるのは男性と妻の暮らした「ふたりの部屋」。描かれる日は震災から5年後の今、ではなくてその1年後のあの日。

男性は、新しい恋人に会うのは弱さからかもしれないと言う。この部屋の壁紙も張り替えたい、家具も食器も全部新しくしたいと言う。死者を忘れようとする試みは、3人の中で一番きれいに響く幽霊の声に揺らがされ無駄とも思えながらきっとこの後もずっと続いていく。
男性は新しい恋人と「今」の話がしたいと言う。でも、今「今」の話をしようとする中に亀裂のように、閃光のように過去が入り込んでくる。わたしたちはいつも変わっていくのに、過去は決して変わらない。

わたしは、多分忘れることがうまくいくことを願っていたように思う。震災後、希望を持ったことも、希望を持ったままの妻を亡くしたことも。「そこまで部屋のものを一掃しようと思うくらいならば、引っ越せばいいのに」。すっぱりと忘れるもっといい方法をとればいいのに。そんなことを考えたからだ。

でも、そんなことで本当に忘れられるんやろうか。忘れることがいいことなのか。忘れさせるのがいいことなのか。
死者が死んだときのまま変わらないように、私の過去も死者となる。どんなに今の自分と違おうとも確かに存在していた過去の自分を放り出してしまってはいけないような気がしながら、留めておくと今の自分と矛盾してしまうような過去の自分は放り出したくもなる。