中之島美術館「モディリアーニ ─愛と創作に捧げた35年─」の感想その①。1910年代のパリという場所。

2022年7月9日土曜日

美術館・展示


アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)。35歳で亡くなっている。短命なのは知らなかった。

展示の章立てはこんな感じ。

プロローグ:20世紀前半のパリ
第1章 芸術家への道
第2章 1910年代パリの美術
特集:モディリアーニと日本
第3章 モディリアーニの真骨頂 肖像画とヌード(会場配布の出品リストより) 

モディリアーニの作品は「第1章 芸術家への道」と「第3章 モディリアーニの真骨頂 肖像画とヌード」にほぼ固まっている。第1章では彫刻家も目指したモディリアーニが紹介される。
その時に、アフリカの彫刻に影響を受けたということが紹介されるけれど、そのアフリカの様式というのが、第3章で取り上げられる首の長かったり、目の表現が特殊なモディリアーニ風の肖像画に影響しているというのが大枠の展示構成だと思う。


第2章は当時パリで活躍した、25人の作家の作品が紹介されるということでかなり混沌としていた。
作家が1910年代にパリにいたのは確かなんだろうけど、なにかまとまったものを見ているというよりも、25人それぞれの表現を見ている、という感じで1枚観て、隣の絵に移ると別のことをやっているという感じだった。なので結構疲れた。

そんな第2章を観ていて思い出したのは吉本隆明の『定本 言語にとって美とはなにかⅠ』の一文だった。

おそらく日露戦争後の社会のひろがりとかわり方がこの時期の表現に特徴をあたえている。文学者たちは、さまざまにひろがった現実の社会の構成のあちこちにばらまかれ、いろいろな感受性をしいられた。そのために、言語と対象となる現実とのかかわりにいく重にもちがった側面があらわれた。文学者たちは自分の表出に思念をこらすまえに、外界の変貌にこころを奪われめまぐるしくそれを追ったに違いない。たとえば漱石の「吾輩は猫である」(明治38年)と風葉の「青春」(同年)とのあいだは驚くほど無関係だといえるし(略)かれらは、違った現実に、いいかえればちがった言語の指示意識にむきあった、それぞれ無関連の個性にほかならなかった。(pp233-224、平成二十年発行、角川書店)

これは1904-5年の日露戦争以後の日本での文学者の話だけど、ヨーロッパでは1914年に第一次世界大戦が起こり画家たちも大きな影響を受けた。そのことは展示でも紹介されている。

吉本は日露戦争以後の時期、吉本が自己表出と呼ぶ自己性、自分はどうなのか、自分と対象との関係や距離のとり方をじっくり考える前に前に、それぞれの作家が社会の様々な違った側面に対峙せざるをえなくなり、同じ時期に表面的に関連を見いだせないような様々な作品が生み出されたと言っていると思う。

「第2章 1910年代パリの美術」のバラバラ感もそうい感じではないかと思った。
セザンヌや印象派等を経て20世紀に入る頃には、一点透視図法的な構図で描かなくていい、もっと多様な表現があるし、それをやっていくのが面白いのだ、というくらいの下地ができていたんだろうなと思う。構図や遠近法の崩壊と可能性の時代であり、次の方向性が確固としていなかったこの時期に、戦争という新たな局面に様々に直面しながら作品は描かれたのではないか。

描こうとしているものが、何と関連しながら、どのように見えているのかという構成や遠近法の問題が可能性に満ちてフリーになっていること、そして、その描こうとしているもの事態の多様さが、複合的に表現の多様さを生んでいたんではないかと思った。
今回の展示だけで言っても、キュビズム、フォービズム、未来派といった流派や、その他流派に分類できない作家の作品が展示されていた。

これまでキュビズムならキュビズムと考えて追ってみてみることはあるけど、このバラバラが詰め込まれたパリ(エコール・ド・パリ)としてこの時期のパリを考えたことがなかったのでそう見てみるのが面白かった。



第2章のバラバラ感があるというか、みんないろいろ描いていた時代に、この展示で紹介されていたモディリアーニはひたすら人物を描いていた。
実は、この展示に行く前に、ちょっと気にかかっていたことは、今自分は人物ばかりが有名なモディリアーニを見てどう思うんだろうということだった。

わたしも人物を描くのがとても好きだったけれど、最近は風景画なんかも楽しんでいる。なので久々に、がっつり肖像画を観たときに何を思うのか、それを書いてみたいと思う。

長くなってきたので、それは別の記事で。