中之島美術館「モディリアーニ ─愛と創作に捧げた35年─」の感想その②。肖像画を見て考えたこと。

2022年7月9日土曜日

美術館・展示

中之島美術館「モディリアーニ ─愛と創作に捧げた35年─」を観た感想の続き。


モディリアーニと言えば肖像画。

わたしも肖像やある一つの対象を描くということが長らく好きだったけど、最近になって風景を描はじめて今はそういう複雑な構成みたいなものが面白い。
久々にがっつりの肖像画を見て何を思うのか、楽しみというか少しドキドキした気分で見に行った。


自分で風景を描いてみて、そして肖像画を久々に沢山見てやっとわかってきたけれど、肖像画や一人の人を描くというのはその人のことを濃密に描いているということだと思った。別にそれはある人という個人性の話でなくてもよくて、ある種の人間性の側面と言ってもいいものだと思う。

書いてみればあたり前に思えることを今更思った。

風景とか、ものや人物を多数配置するという絵になると、一つ一つがどうであるかということよりも関係性に意識が多くいっているように思う。例えば、自分と風景との関係をどうとらえるかで遠近法が変わるだろうし、描写されたものとものとの関係をどう考えているかも表現に影響してくる。自分が世界をどう捉えるかまで視界に入れることが可能になる。


わたしが肖像画を好きで描いていたのは、自分に見えたその人のおもしろさを描きたかったということはあったなと思う。自分とその人・その物との狭く濃密な世界。私やその人が世界とどう関係するかみたいなことはそこにはなかった。


モディリアーニも、ただただ人間の美しさやおもしろを最大に描きたいみたいなことは考えていたんではないかと思う。

首の長さが指摘されることも多く、確かにそういわれて見ると長いのだけど実物を見ると変な感じはしない。多少誇張はあるかもしれないけど首周りのしゅっとした感じに何か良さを感じるってことはあると思う。

瞳の描かれない目の表現も、実物を前にしたときに、多少ぎょっとはするが理由を感じないわけではない。瞳を入れた途端特定の人間になってしまいがちだけどそれを避ける感じに思ったり、人間の底が抜けた感じ、得体の知れなさみたいなものを感じた。

でも今見て変だと思わないにしても、西洋絵画の中でそのように人間を表現できうると気づき、実践したこと自体は決して簡単なことではなかったと思う。



今、自分が興味があるのは、ひとりの人やひとつの物とじっくり対峙するということではやっぱりないなと思ったけど、なにかわかっていく過程で、やっぱりある一つのものに近づいて集中してみたり、離れてみたいということはやる。近づいたときに何ができるのか、またちょっと考えてみたいなと思った。