福田美術館「開館3周年記念 福美の名品展」。絵と絵が置かれる場所のこと。

2022年8月31日水曜日

美術館・展示

嵐山の福田美術館に初めて行ってきた。


2019年開館というあたらしい美術館。
なんとなく気になっていたけど嵐山という不案内で混んでそうな場所というイメージもあってあまりちゃんと気にしてなかったのに、展覧会情報欄でたまたま見つけてどうしても気になって行くことにした。

ざっくり言うところの日本の絵。掛け軸、美人画、山水画。横山大観、東山魁夷、上村松園とか。多分、まだまだ乱暴な分類だけど、そういうものには興味がなかったのにこの5年ほどで少しずづ楽しめるようになった。
今回、またこの展示のお陰で見えてくることがあって今もなんだかワクワクしている。

自分の中の前提、絵画と絵画の外側

展示を通してよくわかったことだけど、自分の中で「絵画」あるいは「作品」というものをそれが置いてある場所との関連を持たないものとして考えてきた。

それは、そもそもいい絵は美術館で見るものだったという経験と関係ないとは思わない。

例えば、ある西洋絵画の名品が美術館に飾られていたとして、その絵はその場所やその時間と関係ない。掛け軸だったとしてもやっぱりそうで、そんな場所に飾られるようにはできていない。でも、自分が見る体験としてはやっぱりそこに飾られていた。
いい展示は、展示作品間の関連によりより絵画を面白くしたり、説明により歴史と紐づけてくれてはいたけど、それでも自分のなかである一点の絵画とその場所性の関係をちゃんと考えたことはなかった。

近代以降の絵画作品の多くは、確かに場所や時間(季節)あるいは特定の人間との関りを前提としない。美術館というホワイトキューブで、その特定の場所や時間とは関わりなく飾られることを前提としていると思う(そういう作品が場所や時間ではなく何を背景としてもっているかというと「絵画の歴史」であるような気がしている。)、けれど、すべての作品がそうかというとそうではないのだ、という当たり前のことによくよく気づいた。

掛け軸は床の間に、主人が季節やある来客のことを考えその日のために掛ける。
西洋絵画も、ある教会やお城などに飾るように、その場所のために作られたものだった。

絵画に描かれていることの後ろの、絵画の背景、この展示の音声ガイドを聞きながら、背景を考慮しながら描かれた絵の面白さに気づくことができた。


「福美の名品展」の音声ガイド

この展示の音声ガイドは無料だった。自分のスマホで聞くこともできるようだったけど、受付で1000円のデポジットをすると機材も貸してくれる。

館内では作品ほぼすべてに解説文を付けてくれているので、わざわざ音声ガイドを借りなくても読むことはできるのだけど、耳からの情報はありがたいなと思った。

絵を見ながら、説明が聞ける。文章を読んで、絵に戻って、文章を読んでということをしなくてすむ。文が書かれたボードの前からではなく、絵の前に立って説明が聞ける。全部聞いたあとに、再度すこし文章を読みなおすこともできる。

説明文と音声ガイド、内容はかなり重複していたが、音声ガイドの方が多少情報が加えられていた。


掛け軸の背景

今回気になったのは「描かれた藤の葉がすずしさを感じさせる(多分「藤」だったと思うんだけど・・・違ったらすいません。)」とか「着物の柄から〇〇がわかる」というような些細とも思える説明。

藤の葉も、着物の柄も絵の中に見えているのにさっぱりそんなことに思いもよらなかった。
藤だってことすら意識にのぼっていない。「藤」は涼しさを象徴することもしらない。

「すずしい」みたいな言葉を聞いて、その時思ったのは、「すずしさ」を感じることがよいと感じる「背景」がそこにあったということだなと思った。外は暑いにもかかわらず美術館はかなり冷房が効いていて、冷えるくらいだった。涼を感じて心地いいという気分はない。

でも、美術館というよりはもうちょっと普通の部屋、自分の家だったり、招かれた家で、その絵を見てチラッと描かれた藤によって「涼」を感じることができたなら。あるいは、これからの季節に思いを馳せる一コマになるとしたら、この絵は自分が今まで感じてことなかったいろんなことをしているんだなと思った。

絵を見るときに、その絵の中にばかり面白さを求めてきたような気がするけど、もしも自分が掛けるならということを少しでも考えてみると違って見えてきた。
「こんな日に飾ったら、どうだろうか?」「こんな場所に?」

そう思うと、草花や柄の細かいところが面白くなりはじめ、自分の知識や経験がないのもよくわかり、絵を描いた人の気遣いが別の角度から見えてきた。

絵の描き方や、線のきれいさがどうこう、というものあるけど、こんなシチュエーションに粋なはからいをという気持ちがあったんだろうと思った。

自分がなにかをつくっていくにあたって

自分が作品を展示する場所に関して、最低限のことしか考えてことなかったなと思う。
絵の中のことばっかり考えてきた、ことにはよく気づいた。
次のまるネコ堂芸術祭でなにかをつくるにあたり、もっと場所や季節のことを考えながらできることがあるような気がしてきた。なにを、と言われるとわからないけど、そういうことを考えてみようとする漠然とした楽しさは感じている。