「バベルの塔」展 展示について①ヒエロニムス・ボス

2017年8月1日火曜日

美術館・展示

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-「バベルの塔」展 ブリューゲル《バベルの塔》(1568頃)

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さっきは、《バベルの塔》を中心に書いたけど、次はもう一人の目玉の画家ボスについて。

ブリューゲルと同じくネーデルラント(そういえば展示ではオランダではなく「ネーデルラント」)の人。時代は、ブリューゲルより少し前の世代で、ブリューゲルが生まれる10年ほど前には亡くなっている。

彼の絵は油絵2点がメインで展示され、あとはボスの模倣とされる版画が多数。油絵は《放浪者(行商人)》(1500年頃)、《聖クリストフォロス》(1500年頃)。

この2点は、やっぱりぱっと見て惹きつけられる魅力がある。構図の力量。
そして、「なになに」と細部を見たくなる。

「寓意」というのがこの人の絵を思い出そうとすると出てくる言葉で、ちょっとずるいと思ってしまう。惹きつけられるのに、細部の描写はなにがしたいのかちゃんとはわからない。面白いと言えば面白いのだけど。

寓意って薄い比喩というかほのめかしというか、直接性が薄い。ある種最終判断は見るものに任せられる感じがあって、作者が何を描こうとしたかということにたどり着けない。ある絵の、例えば《放浪者》なら、真ん中に貧乏そうな行商人がいて、後ろにフクロウがいたり、娼婦の宿があったり、豚がいたり。フクロウは、不吉な事の象徴でもあり、と同時に知恵の象徴でもあったようで(ということは展示で説明されていて)、「この人は娼館へ行ってお金を失いひどい目にあっただろう」ともいえるし、「賢く商いをして生きただろう」ともいえるし、「娼館へ行ったけど、多分それはそれでいい人生だよ」ともいえそうで、また別のことも言えそう。

そういうの楽しめるようで、楽しみきれない。すごいなと思う絵は、そういう何をしようとしたのかの像がバシッと決まる。それが言葉で上手く説明できようと、いまいと決まる。まあ合ってるかはわからないし、わかんなかったものが後にわかるなんてこともあるんやけど。

でもボスの絵は、ぐんにゃりと外してくる感じがある。

「作者が何を描こうとしたかということにたどり着けない」と書いたけれど、ボスがやっていたことはそういった想像の分岐が始まる地点まで見ている人を連れていくことかもしれない。そんな気はする。

こういうことにいい印象を持てないのは、自分が言いたいことの最後のところは直球でいかずぼんやりと捻じっておくということをやっていたからで。多分、自分のいいたいことなんか大したことじゃないんじゃないかとか、その方が作品っぽいとか。無意識にやっていた。想像の余地を残しておくと、見た人にお任せするしかないところができる。上手くいくと価値をのせてくれる。そういうやり方はを制作することとして、今も肯定的に捉えてないから、見てていい印象がもてないのかもしれないと思う。

とはいえ、答えのでないということというのはある種の底なしの魅力だと思う。その魅力の力を意識的に確かな画力で使ってのけたのかもしれない。

自分のこだわりで、ちょっと否定的な印象を書いているけれど、最初見たとき「これはなんかすごい」と思った感じは覚えていて、また別にボスの絵を見る機会があれば違う面も見えてくるかもしれない。

オランダの時代的な傾向まではよくわからないので、好みはどうであれもう少しこの頃、特にボス以前の絵画のことがわかればこの絵が何をしたのか、ということは少なくとももって見えてくるはずで、その機会があれば見直したいと思う。

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