今、肖像画を描いている。最初のコンセプトのところから言うともう4年近くも経ってしまった絵がやっと実際にキャンバスに向かうところまできた。最初のコンセプトは大谷隆と面白そうだと盛り上がって、結局その後2-3年手を付けられないでいた。
肖像画は4人に協力をお願いして3作(二人一組になった人がいるので)を一応作る予定。一つは去年6月に完成した。
それは、本の形式をとった。今回は一枚のキャンパスに描こうとしている。
前作でやったことはもちろん今回に影響しているけど、その話はちょっと置いておく。
実際本腰をいれてこれに取り掛かり始めたのは昨年9月以降。なかなか、細部のコンセプトは固まり切らないという状況が続いた。
今やろうとしてるのは、本人に顔が似てるとかそういうことではなくて、その人の多面性がでるようなことを1枚のキャンバスの中でやりたいと思っている。複数の時間を一つのキャンバスに入れようとしている。描いているのは私の知り合いで、共通の知り合いもたくさんいるような人だ。考えていくにつれて、誰かに見てもらったときに「似てるね」とか「その人っぽさがでてる」とそれだけ言われても嬉しくないだろうな、と思うようになった。
描いているのは知り合いだから私の前でたくさんの時間も過ごしたけれど、膨大なそのほかの時間がある。そういう膨大な未知の時間のほうに足を突っ込んでしまうような絵を描きたい。そのために、その人を知らない人みたいに見て描いていこうとしている。限界も感じたり、4年前のちょっとした計画の細部にものすごい影響を受けたりしながら進んでいる。
一時期は、知っているということを最大限に利用して描いていこう。なんなら一度インタビューでもさしてもらおうか、と真反対のところまで考えた。知らないということなんか完全にはできないんだから、いっそそちらをとってしまおうという逆の極だ。意識してなかったけど学生の頃なんかはそうやって作品を作る傾向が強かったと思う。
話が飛ぶようだけどクロード・モネの絵がこの何年か好きだ。
あの「睡蓮」で有名な。超有名なモネ。
この人がやろうとしたことの一つであるし、ほとんどそれだけやっていたんではないかと思うけど、光を捉えようとしたということがある。
光を捉えるとはどういうことなのか。
光を見るために、実際には物をとらえることになってしまう。絵にするとよくわかるけど光を描けと言われると、なかなかできない。「光?どこ?」みたいな。光と影を描け、くらい言われるとちょっとやりやすくなる。
で、物を描いていくと、物を描いていくことに集中することになる。物というのは、景色であれ鉛筆であれ、ささいなものでも、そのものによって自分がその物と過ごした時間があり、感情やら意味やらも蓄積されつつ見ることができる。
でも、物自体は実際には、そんな自分と物との関係とは無関係に存在して、光があたると私たちはそれを見ることができる。光を捉えるというよりも、色を捉えると書いたほうがわかりやすいかもしれない。自分とモノとの関係とは無関係に、ただ網膜にやってくる色をそのままに描くというのがモネのやろうとし、推し進めたことではないかと思う。
モネの後期の作品は、ある景色や物を最初にちらっと見る(凝視して時間が経ったときでなく)ときの光の印象というか残像のようなものがまざまざと表現されていた。その絵をじっと見ていても細部がわかってくるなんてことは全くない。むしろ、じっとみると何の絵だかわからなくなっていく。でも、しばらく目を離してまた見るたびに、ある対象にぱっと目を向けたときの最初の一瞬の印象が再現される。物と自分との関係が結ばれる前の、意味を捉えてしまう前の、最初の世界なのかもしれない。
今描いている肖像画も、その人を初めて見たかのような気分になるものになればいいと思っている。モネを引き合いに出すのはなんだか気がひけるところもあるけど思い切って書いてしまった。自分がなんでモネがなんで好きなのか、何が面白いのかようやくわかってきた。
肖像画は4人に協力をお願いして3作(二人一組になった人がいるので)を一応作る予定。一つは去年6月に完成した。
それは、本の形式をとった。今回は一枚のキャンパスに描こうとしている。
前作でやったことはもちろん今回に影響しているけど、その話はちょっと置いておく。
実際本腰をいれてこれに取り掛かり始めたのは昨年9月以降。なかなか、細部のコンセプトは固まり切らないという状況が続いた。
今やろうとしてるのは、本人に顔が似てるとかそういうことではなくて、その人の多面性がでるようなことを1枚のキャンバスの中でやりたいと思っている。複数の時間を一つのキャンバスに入れようとしている。描いているのは私の知り合いで、共通の知り合いもたくさんいるような人だ。考えていくにつれて、誰かに見てもらったときに「似てるね」とか「その人っぽさがでてる」とそれだけ言われても嬉しくないだろうな、と思うようになった。
描いているのは知り合いだから私の前でたくさんの時間も過ごしたけれど、膨大なそのほかの時間がある。そういう膨大な未知の時間のほうに足を突っ込んでしまうような絵を描きたい。そのために、その人を知らない人みたいに見て描いていこうとしている。限界も感じたり、4年前のちょっとした計画の細部にものすごい影響を受けたりしながら進んでいる。
一時期は、知っているということを最大限に利用して描いていこう。なんなら一度インタビューでもさしてもらおうか、と真反対のところまで考えた。知らないということなんか完全にはできないんだから、いっそそちらをとってしまおうという逆の極だ。意識してなかったけど学生の頃なんかはそうやって作品を作る傾向が強かったと思う。
話が飛ぶようだけどクロード・モネの絵がこの何年か好きだ。
あの「睡蓮」で有名な。超有名なモネ。
この人がやろうとしたことの一つであるし、ほとんどそれだけやっていたんではないかと思うけど、光を捉えようとしたということがある。
光を捉えるとはどういうことなのか。
光を見るために、実際には物をとらえることになってしまう。絵にするとよくわかるけど光を描けと言われると、なかなかできない。「光?どこ?」みたいな。光と影を描け、くらい言われるとちょっとやりやすくなる。
で、物を描いていくと、物を描いていくことに集中することになる。物というのは、景色であれ鉛筆であれ、ささいなものでも、そのものによって自分がその物と過ごした時間があり、感情やら意味やらも蓄積されつつ見ることができる。
でも、物自体は実際には、そんな自分と物との関係とは無関係に存在して、光があたると私たちはそれを見ることができる。光を捉えるというよりも、色を捉えると書いたほうがわかりやすいかもしれない。自分とモノとの関係とは無関係に、ただ網膜にやってくる色をそのままに描くというのがモネのやろうとし、推し進めたことではないかと思う。
モネの後期の作品は、ある景色や物を最初にちらっと見る(凝視して時間が経ったときでなく)ときの光の印象というか残像のようなものがまざまざと表現されていた。その絵をじっと見ていても細部がわかってくるなんてことは全くない。むしろ、じっとみると何の絵だかわからなくなっていく。でも、しばらく目を離してまた見るたびに、ある対象にぱっと目を向けたときの最初の一瞬の印象が再現される。物と自分との関係が結ばれる前の、意味を捉えてしまう前の、最初の世界なのかもしれない。
今描いている肖像画も、その人を初めて見たかのような気分になるものになればいいと思っている。モネを引き合いに出すのはなんだか気がひけるところもあるけど思い切って書いてしまった。自分がなんでモネがなんで好きなのか、何が面白いのかようやくわかってきた。
0 件のコメント:
コメントを投稿