少し前にDVDを借りて観た『かぐや姫の物語』。
最後の「地上は穢れてなどいない」という姫の言葉が印象に残った。
悩んだり、悲しんだり、喜んだり、「心が乱れ」たり、自分でも気づかないうちに月に助けを求めるまでしたかぐや姫が、それでも「地上は穢れてなどいない」と言った、ほとんど最後のシーン。
この映画で、かぐや姫は本当に喜びを感じたり、本当に絶望したりする。
そして、助けを求めたのは不意に帝に抱きすくめられたとき。
もしも、翁がもといた山里での生活をやめずに、
そこで暮らし続けたら、
月に助けを求めることもなく、
月の世界から来たことも知らず死んでいったのかもしれない。
でも、そういうことにはならなかった。
そんな中で、どうしても我慢できないようなことが起こったとき、
月に助けを求めてしまった。
そのことにより、
かぐや姫は月で与えられた罰、つまり地上へ送られるということ、から解かれて、
月からの迎えがやってくることになった。
「地上は穢れてなどいない」
なんでそんなにこの言葉が印象に残ってしまうんやろう。
ぼーっと頭に残っていたけど、
かぐや姫の物語のサイトとかたまたま本屋で立ち読みした
高畑勲の文章とか読んで言葉になりはじめた。
地上での助けを求めるほどの苦しみにも関わらず、
そうやって悩むこと、地球上でそのようなことが起こることは穢れていない、
できるならば離れたくないと言うかぐや姫。
「穢れ」というと自分の言葉から少し遠い。
でも、もし言い換えるなら
「自分は馬鹿だった」とか、
「つまんないことで悩んでしまった」とか、
「あの喜びはなんだったんだろう」とか、
そんな言葉が頭をよぎる。
かぐや姫は帝に抱きすくめられるというひどい目にまであって、
「こんなことなら来なけりゃよかった」なんて一言もいわない。
そんなことを言ったら映画は台無しかもしれないけど、
そういう事態は日常ではそこそこ起こるように思う。
まあ、自分自身にはそういうところがある。
姫は、月に助けを求めることで、
もう地上には住み続けられないという一線を超えてしまったけれど、
すべての喜びも、
すべての苦しみも、
そのままに感じ取ってきて、そのままに持ち続けたいということを
宣言したように思う。
そんな姿を見たときに、
苦しいのに苦しくないと思おうとしたり、
嬉しいのに嬉しくないと思おうとする、
というよりも勝手にそんなことが起こっていく、
自分の気持ちの方が痛んでくる。
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