表現に関して「消化」という比喩。消化に意識的に関与する。

2020年11月6日金曜日

まるネコ堂芸術祭 未分類

先日のまるネコ堂芸術祭で表現に関して「消化」という比喩を使った。
その比喩自体はありふれていると思うけれど、自分なりに説明ができるよういなったのと、芸術祭では時間が足りないので割愛した部分を書いておきたいと思う。

絵を描くにしても、文章を書くにしても、その他の表現でも、それまでに表現をたくさん見ていてその上でわたしたちは描いたり、書いたりする。
そのときに、以前に見た表現を消化できているか、いないかで表現の質が変わるという話だ。

もし、今までに見た表現を消化できて、それを自分の血やエネルギーとすることを経た上で、自分が新たに表現することができたなら、それは自分なりの表現だ。

でも、消化ができない。消化不良が起こっていてエネルギーとして取り込めない。
その場合、自分なりの表現をしているつもりになっていても、実は排泄物のようにそのまま出てきてしまっている表現になっている。
それは、自分の表現というよりは、他の誰かの表現という要素が強い。

いつでも、なんでも消化できるわけではない。
でも、消化できていないなというときは、それはそのように意識したいと思った。
自分がどのようなことをやっているのかは意識しておきたい。


消化というのは不随意の運動だ。
でも、だからといって意識的に関与できないということはない。

もちろん、今起こっているこの消化のプロセスをなんとかしたいというのは無理だと思う。
でも、長い目で見れば自分のやってきたことがそこに現れるし、消化したいものを消化できるようにしていくこともできる。。

本当の食べ物の消化の話をする。普段玄米を食べない人が玄米を食べたり、いきなり食べ続けたりするとお腹がしんどくなったり、体調を崩したりする。でも、長い間をかけてだんだん玄米を食べる量を増やすと毎日玄米を食べて問題なく消化できるようになる。
それに、筋肉が少なく冷え性だった人が体全体に筋肉をつけると、体が温まりやすいので体調がよくなり、消化器官の働きもいいということも考えられる。

こういうことは、時間がかかるけれど確実なことだと思う。

本を読む、絵を見るということに関しても、そんなふうに考えることができる。
哲学書を読み続けていれば、読めるようになってくる。絵をたくさん見るとわかることが増えてくる。美術史の勉強をすればそれを補足してくれる知識が得られる。


考えてみれば当たり前だけど、消化に関してかなり働きかけることができる。
日々どう過ごしているか、そういうことが露骨に現れる場所だと思った。


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2019年6月1日発行雑誌「言語6」に寄稿文が掲載されました。