11月28日開催。言語美ゼミ第3シリーズ第2回。

2020年11月29日日曜日

言語美ゼミ第3シリーズ

提出のレジュメはリンク先にて公開してます。


今回のゼミでは吉本が引用した本を少しは読もうとしている。
少しはというのはいろいろ読もうと思っていたけれど、なかなかの本が引用されているので、わたしの力では冊数はこなせないと第1回のときにすでに思ったからだ。

影響の大きそうなものを厳選して読もうと決めた今回はサルトルの『想像力の問題』から手をつけた。この選択はなかなかよかったと思う。

少なくとも今回の章で吉本がものすごくサルトルの影響を受けていることがよくわかった。吉本が唐突に書いていると思えることや、なんだか突然のように使われる馴染まない単語も、サルトルを経由してくると背景がわかってくる。

第1回、第2回と引用文献を読んだだけですでに、吉本がいろいろなひとに深く影響を受けていることがわかってきた。「独自」の文学論という言葉にまどわされていたけれど、あたりまえにたくさんのものを読み、影響をうけてこの本を書いている。ちゃんと影響を受けることができるから独自であれるのだ、というのはやっとほんとうにそうだと思えるようになったことだ。

『日本語はどういう言語か』を書いた三浦つとむも言語美ではなかなか批判的にとりあげられるが、批判の部分しか書かないからそのようにみえるだけで、吉本はかなりの部分を取り入れているという話も出た。


参加者全員がなんらかの形でとりあげた箇所があった。
吉本は言語の表出を表現と表出に分離する。その分離は文字に書くという表現行為によって成立する。ざっくりいうと文字に書くまえ、つまり話し言葉だけの段階では、表現された言葉はまだそれを発した本人と引き剥がすことができない。しかし、書くことを経ると、書かれたものはそれ単体で扱うことができる。書いた本人はもちろん存在はするが、それを読むのに本人を参照する必要はないし、参照しても意味がないというという部分がでてくる。

人間の意識がこちらがわにあるのに、言語の価値はあちらがわに、いいかえれば表現された言語にじっさいにくっついてなりたつということだけだ。[101]

この微妙にわかりにくい文章と関連がある(というはほぼそのままの)ことを大谷隆のレジュメと発表は上手く説明してくれていてありがたかった。
それを聞いて、こちらがわ、あちらがわという言葉に対して川のイメージをもった。
文章を書くのはわたしたちにもかかわらず、書かれたものは川の向こう岸にあるようなものだ。わたしたち人間の意識(作者であれ読み手であれ)はこちらがわにある。川のような大きなもので隔てられている。

川という比喩はわたしが読んだ範囲では吉本は使っていないが、三途の川のようなイメージもあって、ひとりの人間はせいぜい長くて100年で死んでしまうけれど、書かれた文章というのはいろいろなめぐり合わせ(幸運といっていうのか、不運といっていいのかわからないが)で何千年ものこってしまうことも頭をよぎった。

そういうことが起こってしまうということを現代の人はしっていてその上でものを書いている。そのことは、書くことに影響を及ぼすとは思うけれど、吉本はもちろんここでそういうことを特段言っているわけではなく、書くということはそれだけで、話すということとは違った影響を自分におよぼすのですということを言っている。

ゼミではレジュメを書いて発表する。
もし、レジュメを書かないで話だけしていたら、ぜんぜん違うことになっているというのは真面目に書く人ほどそういうし、わたしもそう思う。ちゃんと書く方がぜんぜんいい。
書こうとするだけでもう意識というか、取り組む姿勢みたいなものは変わる感じがある。ほんとうに実際に書き始めていくともっとなにかが起こり続けている感じがある。書き終わり、提出すると、また一段落し、それまでは渦中で書いていたのが、読むほうにシフトする感覚がある。

このことを今はこれ以上できないけれど、とにかく書いて文字にすることは、話すだけとは意識に違った影響を与える。
そして、これは好みの問題になるけれど、わたしはこの違った影響が好きで、書くようになっていろいろな楽しいことが起こってきた。



参考に読んだ本:

入手したけれど手をつけられなかった本:


■過去の開催報告

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 ■ 大谷美緒の催し&お知らせ ■
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◯開催中(単発参加可能):吉本隆明『言語にとって美とはなにか』ゼミ第3シリーズ 全13回

○第1回まるネコ堂芸術祭出展者募集中

○12月15日〜12月21日:言葉の表出、冬合宿2020

2019年6月1日発行雑誌「言語6」に寄稿文が掲載されました。