吉本隆明『言語にとって美とはなにか』ゼミ第3シリーズ開催報告。
今回は、「第Ⅵ章 内容と形式」。
形式と内容を語る上で、
本書を誤解なく追ってきた人にとって、吉本はここで新しいことを言っているようには思えない。(大谷美緒レジュメより)
と思った。
だから、誤解があった人にとって、つまり自分にとってはそれなりに読み応えのある章だった。自分の誤解を解いていくことは、芸術に関して自分自身がとらわれていたもの、足かせになっていたものを取り去っていくことにつながる。
で、結局わかってくると、なんだ今までの章で言ってた同じことを、形式と内容に対する誤解に対して言ってくれていたのかということに気づく。
一般に言って芸術の内容と形式という言葉にはある大きな歴史的な「因襲」はへばりついているようだ。だから知らずしらずにその影響を受けている人は多いのではないか。
わたしにかつて生じていた誤解は、芸術にとって何を、どんなテーマを取り上げるかが大事であるというふうに無意識に思っていたことが一つはある。でも、それはそれ自体では芸術の本質ではない。
話は変わるが、レジュメでは取り上げられなかった以下の部分にははっとさせられた。
なぜ、あるものは文学作品を書き、あるものはそれを生涯書かないのか、という問いにたいする唯一のほんとうの答えは、言語の自己表出への欲求が、指示表出への欲求とまじわる契機を創出として展開する理由を、たまたまあるものはもつことになり、あるものはもたなかった、ということだ。この契機はたくさんのじっさいの偶然と必然にあざなわれてたしかに存在している。そこであるものが文学の表現者で、あるものが文学の非表現者だという区別がうまれる。(「言語にとって美とはなにか」Ⅱ−225)※太字は引用者。
自己表出は自分が欲求するものだというのは、言葉どおりによくわかっていたと思う。しかし指示表出を欲求するというのは今までのイメージと少し違った。
指示するためのものは押し付けられている、あるいは、自分の中にあるものを出すために「仕方なく」それを使わざるをえないというイメージが、無自覚にあった(だからわたしは無自覚に内容優先論者だった)。しかし、「指示表出への欲求」という言葉を読み、そこに(他人に対してだけでなく、自分自身に対しても)伝えたいという欲求がある、その欲求で指示性に出会おうとしているというように、指示性を積極的に捉えることができるようになった。こうやってはじめてほんとうに、自分と(自己表出と)、今ある現実(指示表出と)が両方あるから表現ができるということがわかった。両方なくして芸術の表現の出現はありえないし、自分に対しても実際にそれが作品として書かれた時にはじめて出現している側面があると思うようになった。
今更よくわかってきて感激しているが、この本は最初からそのことをそう書いていると思う。
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