作品は不意に現れる。

2014年11月8日土曜日

時々文字起こしをする機会がある。

初めて文字起こししたのは、この街で撮影した映像。

最近は、パートナーの大谷隆の影響で、「コトバのキロク 公開収録」というイベントの文字起こしをしていた。

「コトバノキロク」には私も参加したが、テーマを決めず大谷隆小林けんちゃんが人前で何かを話すというイベントで、聞き手・語り手である二人はいわゆる打ち合わせらしきものをしていないのだった。
強いて言えば、内容を決めないということを打ち合わせたのかもしれないけど。

テーマもないのに私も含め人が集まった。
なんで人が来たのかわからないと言いながら、二人は居所のないまま言葉を絞り出す。
それを起こそうと聞いていると、こっちまで居所の無くなる感じで、今までで一番しんどい文字起こしだった。

そして、その起こされ文字となった言葉とその録音データから伝わってくるものの剥離がとても大きかったことにびっくりした。
その時の間とか、声の響きとか、雰囲気みたいなのがほぼなくなってしまい、目の前に文字として言葉が現れる。
そうなった時点で、自分があそこで感じたことの半分ぐらいは消えてなくなっているように感じた。

文字起こしは大量にはやりたくないなとは思うけど結構好きだ。
なんで好きかというと、そのまま聞いてるだけじゃ聞けないこと、そこにいてるだけだったらわからないことがわかるからだと思っていた。

それはそういう部分はもちろんあるんだけど今回は「いくら努力して残そうとしても残せないものがあるんだぞ」と突きつけられた気がした。

録音したり、撮影したりして後から観察して得るものの方が大きいと思ってたのかもしれない。




ここまで考えて、ちょっと悔しいなという気持ちが出てきた。
「イベント」と書いた「コトバのキロク」が「作品」として成立していたなと思えてきたからだった。
どう作品なのか、何がイベントと違うのかと聞かれると難しいけど、一定の目的をもった何か密度のあるものを見せつけられたというような。
しかも見たことがない形式で。

ちょっとだけわかりやすく書くと演劇に近いところにある何かとかが起こったという気がする。
安っぽいけど、トークショーの最先端とか。

悔しいのは自分にも作品を作りたいという欲望があるからだけど、作品になる分野のものを作ることによってしか今は作品を作れないってことがわかったから。
でもこういうことが自分には作品に見えるのかと気づいたのも面白い。


いやでもこれは不意打ちだ。