東山の和室の円坐を開きます。

2015年9月29日火曜日

催し

友人の小林直子さん(なっちゃん)と東山の和室にて円坐を開きます。
5月に開催して以来2回目です。

二人から、それぞれの案内文を載せています。

なっちゃんからの案内文、
素敵な文章です。
「ここが面白い」「ここが好き」と思わず、言いたくなっています。
是非御覧ください。



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東山の和室の円座

▶日にち:2015年10月17日(土)
▶時 間:10:30~18:30
     セッション1 10:30 - 12:30
     昼食     12:30 - 13:30
     セッション2 13:30 - 15:30
     休憩     15:30 - 16:00
     セッション3 16:00 - 18:30

▶場 所 :東山の和室(京都市)
▶集合場所:10:00に京阪三条駅の上の交差点にあ るブックオフ前 に集合して、
      移動します。 会場まで徒歩10分程度。

▶守人:小林 直子
▶参加費:3000円
▶定 員:7名
▶申込先:mio.yamane@gmail.com (山根澪)

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【山根澪よりご案内】

「自分という生き物が身につけている習性に驚かされてばかりです。」

守人のなっちゃん(小林直子さん)から返って来たメールの一文で、
すごいこと言う、と思って心に残ってた。

一旦「自分という生き物」を、
今まさに考えている「自分」から切り離して、少し距離を置き、
そこからその生き物が「身につけている習性」を見て驚いている。


       



私はその図を想像してちょっと笑ってしまったんやけど、
なっちゃんと話しているとなっちゃんは私のこともそんなふうに
見てるのかなと思う時がある。

私が話すこの場所に寄ってくるではなく、
なっちゃんはなっちゃんのまさにその場所から私を眺めている、
そのことを強く感じる。
前回の東山の円坐の案内文でなっちゃんのことを
「怖くもある存在」と書いたけれど、
なっちゃんは私が行けない場所から私を眺めていて、
そこからは「こんなふうに見える」と言われると私はびっくりしてしまう。


円坐で話すときに、そのことを円になった真ん中の空間に
「言葉を置く」とか「言葉を残す」とか言うことがある。

考えていたことが自分の中にあるままだと、よく見えないことがある、
外に出し「置く」ことにより、頭で考えたはずの同じ言葉なのに
今までとちょっと違って見える。

外に出し「置く」ことにより人からも見えるようになり、
ただ見られることに緊張したり、
別の角度からはそう見えるのかとゾクッとしたり、楽しくなったりする。
ふと、人の言葉を見て感情がゆさぶられることもある。

不思議な事に一人で言葉を発してみても、「置く」ことができない。
発した途端に消えていく。
円坐では場が解かれるまで、置かれた言葉は残りあり続ける。

東山の和室に、そんな場がまた現れる。

山根澪

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【小林直子よりご案内】

円坐には、
プログラムというものがない。
テーマもない。
目指すべき目的や目標もない。

あるのは、
始まりと終わり。

その始まりと終わりによって区切られた時間
そこに集まった人たちによって生まれる空間に
置かれた言葉たちは、
その時空間の中に、残りありつづける。

それは、まるで、
静かな池の水面にできる波紋のよう。

水面は、その場の空間であり、
わたしの中にある空間でもある。
その空間が、置かれる言葉によって、揺らされる。
小さな波紋のときもあれば、
大きく揺れるときもある。
いくつもいくつも波紋が連なるときもある。
波紋もなく静かな静かな時間が訪れるときもある。

円坐で守人として坐っているとき、わたしは、
ただ一人、静かに、
その水面に起こる波紋を感じ、
その揺れを言葉にしたりする。


小林直子