小さいときの問い:「心はどこにあるのか」。

2016年6月3日金曜日

少し前に書いたものだけど、
投稿できなくて保存していたものです。

今、読んだら投稿する気になったので投稿。

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「心ってどこにあんの」って何度も聞いていたと思う。

何度も訪れたその問に、
多分、頭あたりで結論を着けて、一旦問うのをやめていた。

「心ってどこにあんの」

頭かな、心臓かな、
でも頭だと思うのは頭に目がついてるからじゃないの、
だってここからしか見えない、
足じゃないの、
だって足だって痛いと思うよね、
でも足が切れてなくなっても生きていけんねんで、
えーじゃあ心って移動できんのかな。


そんな風な問答を思い出す。
ずーっと忘れていた問いだけど、
吉本隆明の「心的現象論序説」を読みはじめてから、
この問いがちょくちょくよみがえっていた。

それは、「心ってどこにあんの」っていう問いの答えに近づきそうだからかもしれないし、
「頭あたり」という一応の答えは違うなと思い始めたからかもしれない。

何かを考えたり、思ったりすることは、
頭ももちろんやってるけど、
もっと全身の影響を受けてやっていること思うようになってきた。
それに、何か、感情とかを感じるというのは、
たとえそれを言葉で言われたとしても、
頭で理解するだけじゃなくて、
内蔵とか皮膚とかそういうもまで影響して感じているんだと思うようになった。

「心的現象論序説」を手がかりに、
「心ってどこにあんの」という問いにもっと近づけそうな
気がするけどちょっと別のことを書こうと思う。


小学校くらいの頃からか、
こんなものが作れたら、というものがあった。
それは具体的ではなくイメージで、
全身を包まれているような感じになるもの。

特に芸大で、何か作る、制作するというときに、
ちょくちょくこのイメージを思い出して、
でも、それに近いものはいったいなんだかわからない、と思っていた。

その全身を包むイメージからわたしが想起していたのは、
物理的に全身を包むもので、
例えば「ふとん屋さん」。
「本当はふとん屋さんなんじゃないか」と何度も考えたが
わたしには違うはずだとその度に思った。

テンプル・グランディンのハグマシーンという、
全身に圧を与えるような機械を知ったときも、
作りたいのはこういうものじゃないのか・・・いや?、と思っていた。

「心的現象論序説」を読んで、
全身を包まれるようなイメージに物理的に包まれるというイメージ以外に、
目で見たものが全身を包んだり、
耳で聞いたことが全身を包んだり、
そういうことが、わたしの初めにもったイメージに重なるようになってきた。

目で見たもの、耳で聞いたことが全身を駆け巡る、
それは例えば、鳥肌がたったり、寒気がしたり。
そういう、目で見たものが肌まで到達するような何か。