「『無為の共同体』ゼミ」に出ようと思っています。

2017年1月5日木曜日

『無為の共同体』(J=L・ナンシー著)を読むゼミです。
これはかなり面白いんじゃないか、と思っていて一緒に読んでみたい方がいればと思いこれを書き始めました。

1年ほど前に『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明著)をこのゼミという形式で読みました。1年以上経ってやっぱり思うんですが、この本をゼミで読んだことは自分の見え方とか言葉とかいろいろなものを変えてしまって、だから見えている世界が、今、とても面白い。

本自体がそもそもすごいと思うけど、一人ではそこまで読めなかった、複数人で寄ってたかって読むゼミだからそうなった、と思っています。

『無為の共同体』はそれくらい強さのある本だろうと思います。
まだ訳者の「あとがきに代えて」しか読んでませんが、主催の大谷隆とさっちんの言葉からもそう思っています。

といっても、やっぱり読んでみないと何が書いてあるかわからないし、わからないから読もうとしているというのも本当なんですが。

『無為の共同体』。「無為」という言葉も、「共同体」という言葉も、自分には馴染みのない言葉で最初は興味が持てなかった。でも、「共同体」に関していえば、わたしはパートナーと一緒に住んでいたり、父や母といった家族もいたり、こないだは「言葉の表出」という合宿を開いたり、そもそも言葉でこれを書いていること自体も含めて、「共同体」という言葉自体への馴染みの薄さとは裏腹に、ここで話されようとしてることはなにかどっぷりと自分と関わりのあることのように思えてきてます。

「無為」は、こっちはよくわからないんですけど、意識してしていない。とか、行おうとすること無しに。とか、『無為の共同体」。無意識に共同体になってることかなぁ。そういうことは普通では捉えようとはしないことで、そこのへんに切り込んでいる。この本、めっちゃ難しいらしいんですけど、この辺にこの本の難解さがあるのかもしれません。

『言語にとって美とはなにか』もそうだったんですけど、とても難解な本だった。ただ、この難解さの先にあることは極めて日常的なことで、自分がものを見ることとか、ものを読むこととかそういうことにつながっていく。

<と共に>、<存在する>ということ。自分に張り付いてしまってるからこそ意識できないようなところに食い込んでくる本なのではないか。

そうだとして、自分がやっていることに対してすでにいろいろな問が浮かんできます。

本を読むということは、自分が知らないところへ連れて行かれることのはずなのに、自分が知っていることからこう楽しく思ってしまうのが不思議です。いや、タイトル読んだだけでこんなに面白いのか。

ああ、やっぱり読もう。



以下まるネコ堂ブログより転載。
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研究のためでもなく仕事のためでもなく「ただ読むこと」を通して本を体験します。

ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』
アマゾン http://amzn.to/2hJpGCT

第1回 2月11日(土)
 第一部 無為の共同体 46ページ 7行目まで

第2回 3月11日(土)
 第一部 無為の共同体 46ページ 8行目から第一部最後

第3回 4月8日(土)
 第二部 途絶した神話

第4回 5月20日(土)
 第三部 「文学的共産主義」

第5回 6月3日(土)
 第四部 〈共同での存在〉について

第6回 7月1日(土)
 第五部 有限な歴史

各回 13時から17時ごろ

参加費:6回通し 15,000円 各回単発3,000円
    もしくはそれに準ずるもの。
場所  まるネコ堂(京都府宇治市五ケ庄広岡谷2-167)
http://marunekodoblog.blogspot.jp/p/blog-page_14.html
定員  5人程度

申込:大谷 隆 (Ohtani Takashi)までフェイスブックのメッセージかmarunekodo@gmail.comまでメール下さい。

・本を読んできてください。
・各回ごとにレジュメ(形式自由、A4最大2ページ程度)を提出できます。

注意:猫がいます。ゼミ中は会場には入れませんが、普段は出入りしています。アレルギーの方はご相談ください。

参考:
まるネコ堂ゼミ
http://marunekodosemi.blogspot.jp/

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【381】本をすすめる。『無為の共同体』