未来のことを考える、ということ。

2017年7月12日水曜日

生きていくこと

多くないけれど、絶えずまれに聞かれることとして未来のお金のことがある、具体的には年金の話になる。

お金、まあ、今の生活は、なんとなく思ってた、一定の収入があってそのなかでやりくりする、みたいなものと全然違うから、特に仕事を辞めた後、2-3年前は不安も大きかったけど、いろいろ考えながらやってきて、今お金がたくさんあるわけではないけど、普段大きな不安があるわけではない。

その話を書こうと思ってた訳じゃなくて、年金方面の話。
「年金ちゃんと払いなさい」とか、「でも国民年金だけじゃすくないでしょう」とか、「個人年金があるからかけなさい」とか言われても、あんまり「ああそうだ、その通りだ」とは思えなくて釈然としない気分になっていた。

だからと言って、国民年金を否定したいわけでもないんやけど(実際加入しているし)。「少ないでしょう」くらいになると、そこまで断言できるほどそう思ってないからどちらかと言えばああ少ないと思ってるんだなと思うし、もう少し多くてもいいねくらいは思う、個人年金くらいになると、現状困ってない将来のために今追加で個人年金のために収入を増やすなんてないと思っていた。(個人年金だって、別にかけたい人がかけてるのは全然よくて、そのことを否定するつもりは全くない。)

しかし、「かけなさい」なんていわれると「嫌です」となるし、「なんで」となると「そこまで不安に思ってないし、掛け金のために今の生活を変える気なんてない」となって、「そんなんじゃあかん」「なんでだめなの」・・・と、気づいたら「老後のためにお金溜めてなくて生きていけると思うなよ、ちょっとは不安に思え!」とまでは言われてないけど、そういう感じの自分にはありもしない崖っぷちに到着してしまったことが何度かある。後味悪いのに、黙ってもいられなくて何度かやってしまった。


そんなことがあると、自分はほんとに未来のことを考えてないんだな、とちらちらと思ってきた。年金に関して同意はできないけど、未来がこうであればいいっていうイメージくらいはあってもなーくらいは漠然と思ってたのかもしれない。
でも、久々にそんなことを思ってみると、未来のことを考えてないとは全然思わなくなっていて、例えば誰かがおいしい醤油とか調味料をずっと作り続けて売っていてくれることとか、carapaceで思ったことだといい牛の革がずっとあること(牛革の質は年々落ちているらしい)、とかそういうことが結構大事だったりする。

ものすごく高い醤油を買っているわけではない。でも、ちゃんと作ってる香のいいおいしい醤油が、もし30年後、40年後誰も作らなくなってたら悲しいなぁと思う。
買ったから必ず続くというわけでもないし、1年後だってどうなってるかわからない。この何年かでも近所のおいしい洋菓子屋さんがなくなったり、隣の駅のおいしい鶏肉屋さんも閉店した。普段は、未来を考えてとか思ってるわけでもなく、日々欲しいものだから買うんだけど、ずっとあって欲しいなと思う。

そういうふうに考え始めると買い物も楽しい。
近所のスーパーで立派な魚が買いたい、とか思う。
こういうものずっと売っててほしいと思うものに手が届く。
以前は高いだけで手が出なかったものが、収入は減ったにも関わらず買えるようになったりして食卓は豊かになっている。

こんなのは、今のことか未来のことかよくわからないことだけど、生活ということ全般の一部として、そう思うようになってきたことだ。


年金という文脈で未来を話されると、国民年金だけとか月々貯蓄してないというのが未来を考えていないそれはよくないみたいなことにされてしまうこともあるんやけど(そういうこともあり自分が未来を考えてない人だと思ってたのかもしれないし、実際よくないかもしれないと以前は思っていたと思う。)でも、こうなりたいとか、こうなってほしいというのはとても確かに未来のことだし(今のことでもあるんやけど)、そういうことがちょっとづつ見えて来たのか、と今は思う。

そこまで行って逆に考えると65歳になったときに月々○万円入ってきたらいい、という方向の考えに自分としてはあまり確からしさがないのだと思う。まあ、お金あったらいいとは思うけど、そのために強烈になにかをやるとかできない。



(こんなことを書いてるからといって、年金制度どうでもいいとかそういうことではないです、一応。)