提出のレジュメはリンク先にて公開してます。
第Ⅲ章は「韻律・撰択・転換・喩」が章のタイトル。
章の中の小見出しは、
- 短歌的表現
- 詩的表現
- 短歌的喩
- 散文的表現
ということで、タイトルだけ見ていくとなにがなんだかわからないアクロバティックなものだった。終わってみると、「吉本の詩人としてのメインフィールに連れて行かれる」と大谷隆レジュメにあるのだけど、吉本が言語表現の共通の基盤である「韻律・撰択・転換・喩」という4つの段階を詩を詳細に分析することで見つけ出してきたということがよくわかった。
印象として「4散文的表現」はここではおまけ感があった。散文の表現は次の章から詳細に扱うのでここではこのくらいにしておいたのかもしれない。
今回吉本の自己表出というものもまた深く捉えられた。
以下、自分のレジュメからの引用。
(4つの共通の基盤はどういう段階の違いが想定されているのか 、それは)言い換えてみると社会とのかかわりの仕方の段階だと思う。社会への関わり方の度合、踏み込み方の度合と言ってもいい。それは自己表出の高さに関係する。
自分で書いていてよくは気づいてなかったが、発表して感想をもらうと、この事の意味がよくわかってきた。
言葉の自己表出性の高さは「社会で未だ前提となっていないこと」や、「みんながそうは思ってはいないかもしれない」ことを表現するときに高まる。それは、社会を変えていくということであるし、社会と関わっていくということでもある。しかし、社会のためにということが根本にあるのではなく、なんとかしてそれを言わなければならない自分の必然とか、「無意識のはたらき」によってなされる。
社会と関わるということが、単に人とうまくやっていくということ、コミュニケーション力が高いということだけではないと、直接的には書いていないが、そう吉本は考えていただろうとこのあたりを読んでいると思う。
自分が表現をするときにこれ以上は表現できないという壁にぶちあたることがある。それは、これ以上言って誰に何を言われるかわからないという不安だったり、本当に合っているかわからないという不安だったりの様々な理由だ。それでもなおそれを言わなければと思うならば、様々な形(不安に耐える、リサーチを進める、書く練習をする)をとってなんとかするだろう。それをしないのならば、そのことに関してはそれまでなのだから、自己表出力はそこで頭打ちになる。そういうイメージも持った。
レジュメでも触れていが、この章を読むと短歌がおもしろくなってきた。
この事自体がとても嬉しいことだった。おそらく、こうやって短歌を以前より楽しめることは散文を読むことにも影響してくる。
本の内容の話からはそれるが、今回はレジュメが難航した。
2日ほど前に、内容を前から順番に要約したものがほぼ完成していた。1年前の自分だったら驚くほどの完成度だと思うけれど、楽しい感じがしなかった。喜んだり、緊張しながら発表している自分がほぼ想像できなかった。端的に言うと、このままだと恥ずかしいと思った。
そこで、とりあえず新しいグーグルドキュメントを開いて同じレジュメのタイトルをつけやりなおした。それまでは、本に対する手応えがつるつるすべっていたけれど、そうやってなんとかしようともう一度始めてみてやっと面白く書ける感じになってきた。最初のレジュメでちょっと気にかかっていたが、取り掛かれなかったことにダイレクトに取り掛かっていく感じだった。おもしろいと感想ももらいそれも嬉しかった。
ほぼ完成したレジュメを前に、ねばれてよかったし、面白くやれたのでよかった。それも、最初のレジュメがあってこそで、それをやったから理解が進んで書けた提出レジュメだった。
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◯開催中(単発参加可能):吉本隆明『言語にとって美とはなにか』ゼミ第3シリーズ 全13回
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