少し前までは、特に京都で芸大に行っていた頃は、
印象派の絵なんてと思っていてほとんど見ることもなく、
現代美術とか若手の展示を多く観に行っていたけど
最近、巨匠の絵も大好き。
3月2日、細見美術館の春画展を観に行ったあと、
うろうろしていたら京都市美術館の前で、
前日からまじまっていたモネ展に行列はなかった。
印象派、京都市美術館といえば、行列が名物なので、
今日は絶対チャンス、と思いながらも、
ふらふらと逡巡して、三条駅の方まで格安チケットを買いに行き観ることにした。
モネと言えば一応「睡蓮」なのかもしれないけど、
86年という長い生涯のなかで結構いろいろなものを描いている。
今回は、初期の作品から、
モネ自身ののコレクション、
更に「印象、日の出」(3月21日までの展示)、
「睡蓮」を数作品、
晩年の「しだれ柳」、「日本の橋」のシリーズへと進んでいく。
「印象、日の出」はあまりに有名。
授業で散々出てきて、それが見れて嬉しいというのはあったけれど、
今回は「睡蓮」、そして晩年の作品に魅かれた。
「睡蓮」というタイトルのものは計5作品展示されているけれど、
わたしが特にすごいと思ったのは比較的小さなキャンバスの
時代的には早く描かれたもの。
この絵を見て思ったのは、
モネが描こうとしたのは睡蓮ではなくて水面ではないかということ。
比較的現実のものとして描写される睡蓮、
水面は鏡面のようで現実感がない。
水面は異世界への入り口のようにぱっくりと口をあけていて、
ふっと触れたらなにが起こるかわからない向こう側におちてしまいそう。
なのに、睡蓮は水面の上に平然と乗っている。
晩年の「しだれ柳」、「日本の橋」は見る瞬間に解けていく絵だった。
20弱のこれらの絵が展示された最後の部屋に入ると、全体的に鑑賞のスピードが上がる。
絵を見た瞬間には「あ、しだれ柳だ」「あ、庭園にかけられた橋だ。」そんなふうに対象を認識できるけれど、じっくりと見ようとした瞬間には絵が解けていく。じっくり見れば見るほど、柳であるのか、橋であるのかわかりにくくなり、次第に力強いが曲線のミミズのような線の一本一本がただ現れてくるのみとなってしまう。
一生懸命見ようとすればするほど狂いそうになり、足早に次の絵へとすすむ。絵をじっくり見るとか、細部まで見るとかそんなことは完全に蹴とばされて、立ち止まることを許されないような絵の数々が作り出すなんとも騒がしい部屋だった。
再び同じ絵の前に戻ってきて「あ、やっぱり柳」と思ってまた解けていく。
絵というものへ迫っていく感じが、ゲルハルト・リヒターの作品を見たときに感じるものに似ている。
こんな絵を描いたモネという人はクレイジーだと数日経ってから思った。
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