『平成狸合戦ぽんぽこ』の「妖怪大作戦」。

2016年3月9日水曜日

書くこと

『平成狸合戦ぽんぽこ』を観た。



「妖怪大作戦」のシーンが好きだ。
絵の描写はもちろん面白い。
そして、もう一つ面白いのは妖怪パレードの起こし方だった。

四国から呼んできた化け狸の隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)、
太三郎狸(たさぶろうたぬき)、六代目金長(きんちょう)を中心に、
狸たちは総力を結集して妖怪パレードを現す。

その四国の三匹の狸の化け学の深さに乗って、
変化狸(へんげだぬき)も、変化できない狸も、
妖怪パレードへ向けて力を集結していく。

パレードの当日は、
四国狸の中では隠神刑部が中心に描かれている。

おそらく隠神刑部がいないと、
そんな大きく力を集結することすらできない。
でも、いったん力が集結されると、
隠神刑部ひとりでは到底見ることのできなかった。
そんな世界が出現しているような気がする。

隠神刑部の死とともに、
パレードは解かれ、ほどけていく。


このシーンを見て思い出すのが、
書く講座だったりする。

開かれた空間と、
そこに入り込むわたし。

書かれた文字から、
誰かが書いた文章のその書いた人の視界をできるだけ
正確に、詳細に読み、現そうとする。

講座開始後、
主催のけんちゃんと講師の隆によって
徐々にバーンっとある世界が開かれ、
そこでこの文章を読むというところへ向かって、
自分なりに泳いでいるような感じがする。
わたしは上手く泳げるわけじゃないけれど、
自分なりにまだ見えないものへ向かって泳いでいると、
隆の文字への深さや、
まわりの人の声が重なって、
結構なものが見えることがある。

そんなときには、
みんな同じものを見ているように感じる。

場が解かれたとき、
その、まさに見たものは目の前から消えかけていて、
でもそれを見たこと自体は鮮明に覚えている。
そういうところも「妖怪パレード」に似ている。
隆が「死にそうになりながら」とか言っていたような気がするけど、
隠神刑部の死のシーンを見ると、
本当に死ぬようなこともあるかもしれないと
ちょっと思ったりする。


『平成狸合戦ぽんぽこ』という映画それ自体も、
妖怪パレードを表すような、
命がけの試みだったのかもしれない。