壊れると寂しい。理由はわからない。

2014年10月20日月曜日

持ち物

お茶碗が割れてしまった。

割れると寂しいなと思ったりする。
「コップなんか溜まりすぎて、でも捨てれないから割れると嬉しいくらい。」というのを聞いて、そうだなと思ったこともある。

ご飯食べたり、野菜食べたり、いろいろ使ってました。

今回のはちょっと寂しかった。家にある食器の数が減ったからひとつでも減ることが寂しいのかなと最初は思ったが、それは違う。こないだ猫のご飯皿が割れときは寂しくなかった。皿の総数が少ないから次のお皿をどうしようか迷ったくらいのことだった。

やっぱり自分の「皿」という意識があったんだろうか。このお茶碗は自分で選んで気に入って買ってきた。所有してるものが大事なのかな。

月桂冠の蔵が取り壊されると聞いて、残ったらいいなと思った。取り壊しが始まったのか周囲に足場が組まれた蔵を直に見て、なぜだか寂しい。もっと月桂冠買えばよかったのかとか思ったりした。月桂冠の蔵は自分の所有しているものじゃないんだけど、それがあったほうがいいと思った。どうしてだろうか。

このお茶碗が割れて、捨てると決めたところで機能的にはさして困らない。茶碗を買ってからいろんな家で使ってきたりしたことを思い出しにくくなるような気がして、それは寂しい。

今、ざーっと食器棚と見渡して、これはなくなったら寂しい、これはさほど寂しくないなんて考えるけど、この寂しさの理由がよくわからない。