美術のこと。

2015年8月4日火曜日

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8月1日、京都芸術センターに行った、美術専攻での大学院を退学してからも何度かこの場所に来たけれど、いつも少しばかり居心地が悪い。その大学からちょくちょく授業でも来たセンターで、当時の担当教授や知り合いがいてもおかしくない。知り合いに会ったら何を話そうかとシミュレーションしてみたけど「こんにちは」というところまでしか想像できなくて、そうしたらもう会っても大丈夫だと思えた。

二条駅の横の映画館から烏丸のあたりまで歩いていた途中で、時間がたっぷりあったので寄った。なんかやってるのかなと見ると、『夏休み企画展2015 『ハイパートニック・エイジ』』という展示をやっていた。作家名を見ると見たことがあるような名前があって、大学の同じ専攻の後輩が仲良くしていた川ちゃんだ。いつも通り居心地悪く廊下を進み、ギャラリーに近づくと、背の高い男がステープルガンで作品の補強をしていたようで、川ちゃんっぽい。そもそも川ちゃんであるのかも怪しいが、「こんにちは」と声をかけるほどの相手ではなくて横を通り過ぎるがなんとなく顔を見てしまう。

最初の展示室で、絵というかインスタレーションというかを見る。絵が上手い。好きな感じではないけど、上手いなと思う。アメリカの古い感じの喫茶店のシートの質感。キュビズムのような感じに書かれているものもある。絵の下に絵本っぽく文字が入れてあるけれども、日本語じゃなくて読めない。外国語でもない。多分、創作の文字で同じような文字が並ぶ、誰か意思のある、しかし地球人ではない何者かが描いたようにしたかったのか。呪いなのか。絵をボードに張るテープが安っぽい、なんでだろう。

そこから外に出る。多分これが川ちゃんの作品で、色がきれい。恐らく石膏を壁に塗りつけた上に鮮やかな発色の軽い色の塗料。多分、この石膏をぺたぺたと壁に塗りつけるのは気持ちよくて、うちはそういう作業が好きだと思う。石膏の補強だろうか、壁に貼り付けられたチキンワイヤーのような針金を壁にしっかり付けるようさっき補強していたんだろう。石膏の重さが予想外だったのか。ステープルガンで壁にワイヤーをバシバシと貼り付けるのもきっと気持ちいい。作業を感じる。

そんなふうに作品を見ていくのはちょっと心地よく、芸大にいた頃の見方とぜんぜん違う。

数日前に、CARAPACE通信という隆が文を書き、私が絵を描きで作っている葉書通信の絵を見てくれたさがちゃんを思い出す。女の子と男の子と牛が書かれた絵を見て、これはみおさんっぽいけどちょっと違う。これは大谷さんっぽいけどちょっと違う。そんなことを言う。それが、うちが絵を描いたときに考えたことと似てるから驚いて、なにも言えずにいた。うちは、隆の書いた文章を読んでどんな絵を描こうか考えた。「女の子のモデルはうちかもしれないけど、誰かというより一人の女の子、一人の人間みたいなのがよくて。男の子のモデルは隆かもしれないけど、誰かというより一人の男の子、一人の人間みたいな感じだ。」これを考えたのは隆の文章の「革を扱う者として、僕たちも川の流れのなかにいる。」という文を受けている。「僕たち」というのはCARAPACEのカバンをつくる「私と隆」でだけはなく、このリュックを買い「扱う」人たちでもあり、更に言えばCARAPACEに限らずとも革製品を買い「扱う」人たちだ、と解釈して描いていた。前半、「僕」で語られた文章が、後半「僕ら」に変わる。だからそれくらいには劇的だ。

そんなふうにして作品を見てみるんだけど、何を言わんとしているのかわからない。大きな美術館で上手いこと展示してあると、時代の流れとか、何でこういう作品をつくったのかとか、作品の並べ方や解説で説明してくれるのでわかっていくんだけど、こういうところの展示は読み解くのが難しい。最近、新しい作品をあんまりみてないので、読解力がないのか単に作品自体に力がないのかそれさえ判断がつかなくて、悔しい。それくらいに最近の作品を見ていない。読めなくて、悔しい。

ああ、と思ってチラシの文章を読むも、助けになるようなものは読み取れなくてがっかりする。

何年も、展示をするほどに絵を描けてはいない。「描いてないのに本当に絵が好きなのか?」少し前にそう問われ続けた。そんなことを思い出すのもこの場所にいるからで、居心地の悪さの一つかもしれない。

その後、マクドナルドに行って芸術センターで感じたことを近々ブログに書こうとメモする。今、大方書き終えたのでメモを捨てる。全部は描いてないけど、今読むとちょっと違うなと思うことはカットする。

メモしてからしばらく経って更に思ったことは、キューレーターはもうちょっとなんとかできなかったのかということで、何故この作家なのか、何故この作品なのか。誰が、何をいいと思ったからあの作品があそこにあったのかもっと言って欲しい。ホームページにある、恐らくチラシと同じ文章の案内文には不満足で。作品のことは、作品自体か作家が語らなければいけないんだろうか。観る私に委ねられるのか。いや、この作家たちで、この展示をやろうと思った京都芸術センターの誰かにももっと語って欲しい、その展示がある原因の半分くらいはセンターの意志だろう、というのは少し前までは全く思わなかったこと。