さっきcarapaceのfacebookに【革包丁とカッター】という話を書いた。
毎回、裁断の度に出るカッターの刃のゴミに虚しくなってきて、
これからはもっと革包丁を使うようにしようと思った、というような話。
こういうことを考え始めると、
次は革包丁とカッターの製造工程ってどうなってるんやろうか、
とか、
そこでのゴミの虚しさはどんな感じなんやろうとか、
そういうところに向かってしまう。
それを知ること自体がそんなに悪い話とも思えないけど、
あまりいいとも思える感じもしなくて、
もうちょっと別の話し方もできないやろうか。
最初、carapaceを始めた頃、
道具を見られるというのは結構恥ずかしいことだった。
今でも、緊張する感じはある。
どんな道具を使うかに精神が、
ある意味、
商品を見られるより如実に見えるんではないか、
という感じすらする。
道具に関して、そこから精神が見える、
ということを自覚したからといって、
それをそうそう簡単に変えることはできない。
商品の形、
よりも自分にへばりついていて変えるのが難しい。
例えば、カッターを革包丁に変えようと思ったとき、
簡単に思いつき、説明できるだけでもこんなことが変わる。
・道具の購入場所の変化
・替刃を補充するというメンテナンス→包丁を研ぐというメンテナンス
・消耗品的な道具の使用→長期的な道具の使用
・道具を使う時の動作
道具の選択が、
きちんと商品に見合って欲しいと思っている。
道具を選べることで、
商品も変ってくるし、それを説明する言葉も変ってくる気がする。
丈夫なカバンが作りたいというとき、
その道具も丈夫なカバンなのかと問われている気がする。
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