商店街に行ったときの行きやすさと、この家で催しを開いたときに思ったこと。

2019年2月13日水曜日

催し 子どもとの生活

一昨日、自分の文章を書くための通年講座 2019の一日目が終わった。

わたしは参加者の一人として、自分の家で、息子(五ヶ月)を連れてパートナーが講師をする講座に参加している。主催のけんちゃんは、パートナーのなっちゃんと息子の息吹くん(約1歳半)と一緒に来ている。

子どもは、講座の内容に関係なく声をあげたり、講師・参加者に絡んだり泣いたり寝たりするわけで、大人のための講座としては見たことのない様相をていしていた。そのことは、講座に影響を与えないわけではないけれど、特段問題にはならなかった。自分がそう思ってるだけでもしかしたら困った人もいたのかもしれないけど、とりあえず大丈夫そうに思えた。

その晩、思ったことはこの家は商店街のようになってきているということ。
1件の家だから、商店でいいではないかと突っ込まれそうだけど、こないだ商店街に行った時の感覚を思い出すので商店街と書きながらすすめてみる。

ベビーカーで新(あらた)を連れての商店街での買い物は、おおよそスーパーで感じるような買い物の煩わしさとは無縁だった。道の広さも十分に思えた、スーパーのレジでのなんとなく感じるベビーカーが不便さがなかった。

なにがそう思わせるんだろうと考えてみたけど、商店街はもともと赤ちゃんから年寄りまでは暮らす場だったからではないかと思う。商店街の商店は、多くはおそらく店舗付きの家だった。家であるのだから、そこには生まれて間もない小さな子どももいるし、そこで年をとって死を迎えるような人も居るだろうし、妊婦も、病人も、元気な人も、そうとういろんな人がいうるのだ。商売とは直接関係ない家の主にはその家族であろう住人も、店のまわりをうろうろしている。そんななかで商売をしている。

住んでいる人にいろんな人がいるということは、客もいろんな人であれるように思う。ベビーカーであれ、おんぶであれ、赤ちゃんを連れた大人というのは、商店街のなかでは、どんな人でもいうるなかの一つの可能性にしかすぎない。だから可能性として大多数にはならなくとも内包されているし、むしろ商店街的には割とメジャーな存在かもしれない。

スーパーはどんなにベビーカーで行くことが「配慮」されたとしても、配慮されているにすぎないという気がする。前提としてその場にいる人間ではない。前提としては組み込まれていないけど、でもできるだけ配慮はしますよという感じ。もちろんスーパーにベビーカーや子連れで行きたいわけなのでちょっとでも行きやすくしてくれることは嬉しい。

でも前提として組み込まれている強さはなかなかのものではないか、と今回思った。今はもう商店街に実際に住んでいる人は少ないだろうけど、その名残が商店街を少なくとも今の自分のベビーカーでの子連れという状況において行きやすい場所にしているように思う。

今、子どもがいるということは自分の家での前提になっている。そういう前提の場所で子どもと過ごすことは講座を開くという状況であってもなんとかなっている。

講座を家でやるということが現代においては少し特殊かもしれないけど、住んでいる人々を中心に、でも特定の人を対象としているのではなくいろんな人が居うるという家という構造でなにかをやっていくことは意外にやりやすいことなのかもしれない。特に住んでいる人にはそうで、小さい子どもがいながら様々な催しを開いて来れたのは家でやったからにほかならない。

家という場所は、場所としても割と不特定の人が居れることを前提としているし、ここで何かを開くときの人の気分としても割と不特定の人が居れることを可能にしようとする気構えが生まれるのではないか。

荒っぽいけど、その日思ったことを書いておきたくなった。


以下は余談だけど、妊娠中から生まれる子どもとどうやって暮らしていくのだろうかということをいろいろ考えた。特に「子どもがいるから○○ができなかった」というようなことを言いたくないと思っていた。別に、それまで通り生きたいわけではないけれど、大事なことをどうやってやっていったらいいのだろうかということ。

勝手に遠慮してはいけないというのは一つ思ったことで、この講座だって先に「子どもなんか一緒に行ってはいけない」と思ってやめてしまうと、よくないことが起きるだろうと思った。この講座以前に、新と一緒にこの家でのいろんな催しに参加してるので、すでにこのときにはそうとう度胸はついてた、というか意外に大丈夫ということを体験し続けてきた後だったけど、最初は気になりながらふみ出して行く感じだった。

追記:
商店ではなく、商店街なのはまるネコ堂一件ではなく、主催のけんちゃんの家族(スペースひとのわ)も一緒だったからかもしれない。