言葉がつうじないこと

2019年4月7日日曜日

書くこと

1月末に英語で手紙が久々に届いた。もともと少し日本語がわかる彼はもう日本語を忘れた、と英語で書いていた。

もう英語は忘れかけている。今日、この手紙に返事を書こうとして思い出した。

以前は英語がわからなくなっていくのが嫌だった。この彼やほかの友人と話すべがなくなるようで。それがとてもなにかだと思っていた。この手紙を受け取ったときには少し変わっていて、別に言葉が全く通じなくても彼もわたしも真面目に楽しく生きていればなんだかそれが幸せなことのように思えた。彼の手紙にはちょっとした絵が添えられていて、彼は絵を描いたりものを作ったりする人で、それを続けようと仕事まで辞めた人だったから、今もどんな程度かはよくわからないけど、それを続けていることが自分をとてもうれしくして、そして今自分がまた絵を少しづつでもかいていることを思うと、なんだか嬉しくなった。

いつか、英語の手紙が全く読めなくなってそれが届いたとしても嬉しいような気がして、それに彼が読めない日本語の返事を書いてもそれでもいいような気がした。

まあ、ほんとに意味が読みたけれは翻訳を頼む。

ということを英語で書きたかったけど、めんどうになってかいつまんだようなちょっとちがったようなことを書いた。めんどうというかもうそこまでできないような気がした。

英語がしゃべれると思うということは自分にとってどういうことだったんだろう。もう、英語はなんだか技術としてはまあ少しはできるけど、もうそういえばとっさに出てくる一言さえもなくなってしまった。一時期は、普通に日本語で話していても、この単語は、この言い回しはどうしても英語のほうがしっくりくるんだよねってことがよくあった。もうそれだけ自分から英語がはぎとられてしまったから、こんなふうにまったく言葉が通じなくても幸せにそれぞれいて、それがなんの未練もなく幸せなのかもしれない。

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