【名画からの一枚 003】『母の愛撫』(1896年頃)メアリー・カサット

2019年11月26日火曜日

名画からの一枚

この絵については約3年前にも書いている

『母の愛撫』(1896年頃)メアリー・カサット

名画からの1枚のシリーズとして書き直したいとずっと思っていた結構好き。
3年前の記事が自分で面白くて、ちょっと書きづらくなってしまった。

メアリー・カサット(1844 - 1926)、アメリカ生まれの画家。後にパリに渡り、大雑把には印象派と呼ばれている。

この頃まだめずらしい女性画家。特に、美術史でならう数少ない女性画家のひとり。大学の頃はメアリー・カサットの絵が好きになるとは思っていなかったけど、美術展で見て引きこまれてしまった。

メアリー・カサットがこの絵で捉えているのはかなり短い一瞬だ。1歳かそれより小さいか。そんなくらいの女の子がこんな体勢で、こんな表情で止まっているなんていうことはありえない。大人だってそうだ。同じ表情、同じ体勢でいるわけではない。カサットはここで、ものすごい短い一瞬の出来事を、かなりの細かさで描ききっている。指の感じ、髪の毛の艶、女の子の表情。それは動きとして表されたのではなく、ほぼ静止にちかいある一瞬だ。

この絵で、メアリー・カサットは自分がよく見ることのできる人間というものを、緻密に描写することで世界を作っているように見える。

世界がなにかという説明は一旦置いておいて、背景を見てみる。背景は、ほとんど適当だ。川沿いか、林か、そんな感じだろうと思う。川か、林だとすれば、これらはさほど動かないので緻密に描こうと思えばこっちのほうが方法はありそうに思うけど、ほんとに適当。

他のメアリー・カサットの絵を見て思ったけど、ほんとに風景はかけないという感じだった。頑張って庭の絵を描いてたものはなんだか痛々しいくらいだった。興味の持ちようがわからないのだと思う。風景は多分メアリー・カサットにはあんまりよく見えてない。ほんとに、この絵に描かれたくらいのこんな感じなんだと思う。

若いときは、風景も少しは描いてみなきゃなんてのもあったのかな、と思ったりする。きっとカサットは、この絵を描く頃にはなんとなく風景も描かなきゃなんてことは振りきっていたんだろうと思う。自分が見て、ものすごく魅力的に映るそれを残せたら、それで画面を支配できる。

カサットがここで描いた一瞬は、母と子のあるとても緊密な一瞬。母と子が、いつもこんなふうにあるわけがない。この1秒前には、特に描きたくもならないような、カサットに向けた笑顔だったかもしれない。この1秒後にはカクンと首をうなだれているかもしれない。

親子が見せたある集中に、そのままカサットは集中、ピントを合わせ、そのような意識として背景がぼやけている。背景がぼやけているのは、カサットの意識でもあるし、多分この母と子としても、ふたりの集中のなかで背景はぼやけているのではないか。
この点に関しては、少し違った視点からだけど3年前のブログで書いている。
人間が自分と関係なくある瞬間が好きだったのかもしれない。『メアリー・カサット展』京都国立近代美術館。


以下、余談になる。

こんな親子の一瞬をわたしは現実に絵を見る前に知っていた、「ああ、こういう親子の感じあるね」という気分が起こらないでもない。でも、ほんとうにそうなんだろうか、と思うことが度々ある。カサットがこんなふうに描くことをしたから、わたしは今こんなふうな親子の一瞬を目撃することができるのではないかと思うことがある。カサットはもう100年以上前の人だから、カサットそのものを見ていなくても、カサットの影響を受けた、カサット風の絵をわたしは見てきただろうと思う。

これはカサットに限ったことではない。絵を見ることで現実がより細かく見えていくということはある。名画というのはそういうことをしてきたのではないか。そして、この先も見るということを変えていくような絵が現れるのだと思う。