京都国立近代美術館の「没後50年 鏑木清方(かぶらききよかた)展」に友人と行ってきた。
展示の内容については別の記事で書きたいなと思っているけれど、一人ではなく誰かと美術館に行くときの楽しみなかに作品を目の前にしての会話や意見交換があるという当たり前のことを知るきっかけになった。
当日、会場はそれなりに人はいるという感じだけど、大混雑ではなく、それなりに雑談も聞こえている。まあ、いつもの感じと思っていた。
ぼつぼつ話しながら行くと、中盤で監視員の方に多分「すいません」と声をかけて紙を見せられた。
文面までは覚えていないけれど、コロナ対策のため話はやめてくださいということだったと思う。
もちろん大声で話していたわけではない。まあ多少それまでよりは喋っていたかもしれないけれど、びっくりしてしまった。マスクもしているわけなのに、と思ってしまう。
それから、全く話していないわけでもないけれど、最低限に、少し緊張しながらの鑑賞になった。面白いことは長くなっちゃうからと思って余計に話せない。
外に出て友人と話をするけど、なんだか浮かない気分が残る。
鑑賞中に言いたかったことを話すと、当然自分が細かく見ていることを相手がすべて見ているわけではない。「それは見てなかった。」という話にもなってしまう。せっかく一緒に来たのに、あの時目の前にあったのに、としょんぼりした気分になる。友人からだってもっといろんな話が聞けたかもしれないのに。
私は一人で展示に行くことも多いし、それはそれで好きだし、絵自体は見れたのではあるけど、誰かと美術館に行く楽しみの大事な部分がごっそり抜けた鑑賞体験に思えた。
誰かと行くときには実物の細かいことを見ながら、ここがこうだ、ここが好きだ、ここどうなってるんだ、と話をしながら見ていくことも大きな楽しみだったということがよくわかった。
コロナで美術館の運営には気を使うことも多く大変だと思う。
けれど今後会話抑制の傾向が続くよりも、以前のように普通に話せる美術館になっていってほしいと思う。
美術館によって対応は異なっているとは思うけれど、ざわざわした展示室やギャラリーツアーで作品解説や質疑をしながらの鑑賞風景を懐かしく思い出した。
散々美術館に行ってきて今更言葉になるけれど、わたしは美術館に行くのが好きなんだなと思った。
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