嫉妬の会を開きます。

2015年6月11日木曜日

嫉妬

友人の小林直子さん、永田千砂さんと
「嫉妬の会」を開きます。

もともと嫉妬深いので会を開きたかったのですが、
会の話を進め始めてからどんどん嫉妬パワーが
減少していきました。

今でもあの独特の嫌な感情が巻き起こることもあるけど、
「悔しい」とか、「羨ましい」とかそのまま口に出すとパワーが減圧されるようです。

以下に掲載している私の案内文の中に、
「あるときまた楽しそうにしている友人たちを見てイライラしていた。 」
とあるんですが、この「友人たち」というのは主にパートナーのことです。
今見ると、案内文を書いた10日程前には正直に書けなかったんだなと思い悔しくなって、
ここに書きたくなってしまいました。ああ、悔しい。

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嫉妬の会

箕面市桜井市場のちまちま堂で「嫉妬の会」を開きます。

この場は、主催者やゲストのトークという形ではなく、
集まった方と円になって共に時間を過ごします。
あるのは嫉妬というテーマだけで、
思うままに話していただいてもいいし、
ずっと黙っているのもかまいません。

▶日にち:6月23日(火)
▶時 間:18:30-21:30
▶場 所:ちまちま堂
     阪急箕面線桜井駅より徒歩5分 桜井市場内
     http://www.chima-chima.com/access.html 
▶参加費:2000円
▶定 員:7名
▶申込先:mio.yamane@gmail.com (山根澪)
▶世話人:小林直子
▶主 催:永田千砂、小林直子、山根澪
※嫉妬の会終了後、11時頃までをめどに「ゆるり飲み会」を予定してます。
 軽い食べ物とお酒を用意します(1000円)。

【以下主催者より案内文です。3人それぞれ書いていますので長めですが是非お読み下さい。】

「嫉妬の会」を開きたいと思ったのは私自身が嫉妬深いから。

「幸せな人を見て、幸せに思えることは幸せだ」
以前にノートに書いたことがあります。

 幸せな人を見てもあんまり幸せだとか嬉しいとか思わなかった。
なんとなく腹が立つか、実は無関心ということの方が多かった。
 楽しそうに遊ぶ話を聞いたり、目標を達成したことを聞くと、
「よかったね」「おめでとう」、と言った方がよいと思い言っていたけれど、
 本当は「悔しい」「羨ましい」「なんであんたが」「悪いことが起こればいいのに」
 と思いイライラしていた。

イライラしているだけならまだしも、
邪魔したり、拗ねたり、嫌味を言ったりしていた。

あるときまた楽しそうにしている友人たちを見てイライラしていた。
一緒にワークショップを企画する彼らを見て、
潰れればいいのにという気持の奥にちょっとだけ
「私も一緒に行きたい」という気持が見えてそれを伝えた。

その頃からとぼとぼと自分の嫉妬心に付き合い始めた。
最初はそれを嫉妬心と思ってなくて、
「ああ私は嫉妬深いのか」。それから更に時間が経ってそう思った。

今度は、嫉妬のことを話してみたいという気持が出てきた。
 一人ではできない気がして、小林直子さん(なっちゃん)に声をかけた。
 実は、なっちゃんも嫉妬深いのではないかと密かに疑っていたが、
あんまり嫉妬って考えたことなかったとのことだった。

永田千砂さんはあまりに軽やかに嫉妬心を口にするので驚き、
 聞いていると楽しくなって会をやろうと思っていることを話した。

長い間、私にとって扱えない問題だった嫉妬。
その時から考えると「嫉妬の会」が開けるなんて驚きです。
今は、なんとも下世話なタイトルも気に入っています。
ご一緒できるのを楽しみにしています。(山根 澪)

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嫉妬の会をすることになり、
 ここ数日ぼんやりと嫉妬について考えている。

嫉妬という言葉を聞いても、実はあまりピンときていない。
嫉妬と呼べそうな感情は、これまでに身に覚えがある感じもするけれど
具体的に思い出せない。

今のわたしには、
嫉妬よりも羨ましいという感情の方がしっくりくる。
ついこの間も、 友人の父娘関係を見て、すごく羨ましいと思った。
その時は、その羨ましい感じをそのまま言葉にできたので、すっきりとした。
 同時に、その言葉を発するエネルギーがけっこう高いことにちょっと驚いて、
父親との関係を望んでいるわたしがいるんだなーと自分の姿を見たりした。

嫉妬の意味を調べてみると、
(1)自分よりもすぐれた者をねたみそねむこと。
(2)自分の愛する者の愛情が他に向くのをうらみ憎むこと。また、その感情。
と書いてあった。 嫉妬って、羨ましいと思う相手に対して
 「憎む」という感情が起こることなんだなぁと思った。

今度は、羨むという言葉を調べてみると、
(1)他の人が恵まれていたり、自分よりもすぐれていたりするのを見て
自分もそうありたいと思うこと。
(2)他人のすぐれた才能や恵まれた状態を不満に思うこと。
と書いてあった。
由来も書いてあって、羨むとは、心(うら)病む(やむ)というとこからきているらしい。
相手を見て、相手のようになりたいと思うところから
羨む感情が生まれている。

そういえば、私自身、相手ばかり見ている時があったなと思い出してきた。
自分は全くダメダメで、自分の周りの人、誰も彼もが自分より優れた人だと思っていた。
そういう人たちに対して、憎む気持ちというよりは、
自分はだめだーという感情に押さえつけられて身動きができなくなる。
だから、より魅力的な人には自分からは近づこうとしなかった。
今でもそんな感情に陥る時がある。

その時の感じを思い出してみると、
自分のことは全く見ず、相手のことばかり見ていたんだろうな―と思って、
いや、相手のことを見ているようだけど、
実は、相手のことも全く見ていなかったのかもしれないと思い直した。

嫉妬に振り回されている時も、同じようなものなのかもしれない。
自分というものに囚われてしまっていて
自分のことも、相手のことも全く見えていない状況。

嫉妬に振り回されるとなかなかしんどい。
そのしんどい状況を抜け出す秘訣は、
自分を見ることなのかもしれない。

今のところ、思うのはそこまで。

“嫉妬”をいうテーマを掲げた時に、
そこに集まった人たちと、どんなことが起こるのか、
わたしはどんなふうに反応するのか、
怖さもあり、楽しみもあります。
そんな場をご一緒してくださる方、お待ちしております。
(小林直子)

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 「くぅ~!」と唸るような素敵な文章をみて、 「いいなぁ~」と思った瞬間「やられた!ここら辺りのこと私も思てた!!思てたで!!」なんて腹の底でブツブツつぶやくことがある。
 
 「思てた」と「表に出ている」とは格段に質の違うものである。腹の底であろうと、こんな鈍感な言葉が吐けるようになったのは、出逢い、別れてきた人によって身についたのだなと「嫉妬の会」に寄せて言葉を紡ぐ中から確信した。

 いろいろ「私」の中を覗いてみる……

 私という物体はどこ行っても同じなのに、いつかきっと何かになるんだって信じて幻を漂う子どもだったし、それをかなりの年齢になるまで思っていたようにも思う。そして「何者にもなれない」んだってことに気づき悶々としていた。
 私以外のすべてに対して、劣等感満載でおそろしく卑屈だった。    

 いつの頃からか、そんなくよくよするのにも疲れてしまって、「ちぇっ!」て舌打ち打つ前に「これっていいなぁ~、先にええのんやられちゃったやん~、ずるいよなぁ~」やけに吐き出すようになった。

 笑いながら、悲しい気持ちやちょっと云いにくいことも云うようになった。
どちらかというとほんと、笑い飛ばしながら…。

 実はこうなる前にちゃんとした自分にとっての儀式があったように思う。
 それは、内にふつふつと怨念のようにネガティブなつぶやきを溜め込んで動けなくなり、すべて時間が止まってしまった。
  
 体の中で言葉が言葉を重ねて自分を支配する。
 概ね1か月くらいを3回ほど経験した。
 感情というものはすべてなくなり、暮らすことにあせらなくなる。

 「約束をすること」「会話をすること」がこれほど高度な文化なんだと思い知らされ、すべてを捨ててしまいたくもなった。

 ドーンとドロドロした底の方で三角座りをしている甘えた私を、どんな時もつながる人たちが何気なく包んでくれ、そっと「今」の時間に乗せなおしてくれた。

 レコードの針が外れたのを、そっともう一度溝に針を落としてくれる。
 そんな感じだった。
 
 私以外のすべてに対して嫉妬していた感情はこんな感じで何度もぶつかりどんどんまぁるくなっていった。それからの「嫉妬」は私にとって心地よい感情に変わった。

 「嫉妬」という言葉で湧き上がる物語を
 ともに旅する時間と空間
 ご一緒できること今からとても楽しみ♪(永田千砂)