文字は生きていることを伝えない。

2015年6月18日木曜日

書くこと

昨日、更新されたブログを見て星の話を思い出したのとは別にもう一つ思い出していることがあった。

「I AM STILL ALIVE」という美術家河原温の作品で、特定の人物にI AM STILL ALIVEという文面を電報で送り続けたそうだ。

電報をもらった人は、電報が打たれた瞬間にどうやら河原温が生きていたらしいということを考えるのだろう。でも、受け取った瞬間にはもう生きているのかわからない。そして次の電報が届くとき、またその瞬間に生きているのかどうかわからないけれど生きていたと知っている時点が更新される。


昨日、ブログで生存確認をしたけれど、その時のたよりなさはそんなかんじだった。
今、生きてるのかは結局わからない。


「I AM STILL ALIVE」はtwitter上でもなされていて、毎日決まった時間に「I AM STILL ALIVE #art」と
@On_Kawaraのアカウントからツイートされて今日も既にツイートされている。
これ、ほんまに本人が始めたんやろかとかちょっと思ったりもする。

ところで、河原温は去年なくなっている。でも、きっとツイートはこれからも更新され続ける。


こんなことを知ると、ブログで生存確認なんてできなくなる。
スケジュールされた記事なんじゃないか。
死ぬことを想定してかしまいか、未来のものすごくリアリティのある記事を膨大に書き残しててスケジュールしたんではないかと考えてしまう。いや、そもそもブログって生存確認ために見るものではないんだろうけど。


大谷隆がよく、書いた人が生きているのか死んでいるのか読むことには関係ない、書くことは死体を残すことだ、と言うけれど、少し分かり始めた気がする。

いくら「私は生きています」と書かれても、その瞬間文字と書いた人は切り離されて、「私は生きています」という文字が誰かに届いた頃には、「私は生きています」といつかの時点で誰かが書いたということがわかるだけになる。例え、その書いた本人が目の前に生きていたとしても、生きているのを確認しているのは自分であって、そこに「私は生きています」と書いてあるからではない。

twitterやブログの更新を見た時には、書いた人がいつか、更新日時ととも全く関係ないかもしれない時間にその文章を書いて、発表する日時を決めたということはわかる。


目の前に誰もいないと、誰も生きていないような気になる。
最近、文章を書くときはそんな空間にいたいと思うようになった。