「嫉妬」と「無縁」は裏表。

2015年7月3日金曜日

嫉妬

【195】憎しみという縁と敵味方のきらいなき「平和」。に触発されて隆としばらく話していた。


「無縁」を知ろうとする隆と「嫉妬」を知ろうとする私がなぜ一緒にいるのだろうと思っていると、無縁と嫉妬は表と裏だと思えてくる。
先のブログの言葉を借りれば、「感情的でない」(≒無縁)と「憎しみ」(≒嫉妬)をそれぞれ扱っているのかもしれない。

嫉妬の前で無縁は際立つし、無縁の前では嫉妬もまた際立つ。
私が嫉妬するとき、それなりに対処出来る人たちの中にいると際立たなかった嫉妬が、全く対処しないというか縁を切ってしまう無縁の前では燃え盛る。

無縁もまた然りで、縁を紡ぎ続けようとする嫉妬の前でまたその輝きを増すのではないか。(私のおかげで無縁の理解が進んでよかったね。なんて言ったりしてた。)



以前なぜ私が「無縁・公界・楽」に興味があるのかと聞かれ、よくわからなかった。もしかしたら、嫉妬を犯す脅威として無縁に興味を持っていたのではないか。

しかし、今となっては無縁の力をよく知っていて嫉妬をテーマにした「嫉妬の会」を開いたときそういった力が作用していると思った。円坐という形式や自分とは関わりの薄い場所での開催ということで会をやることができた。
そもそも、それを開けるようになったというのも隆の無縁の感情的でない力だった。隆は私の行動の中から嫉妬というものを取り出して、取り扱えるようにした。

それで、やっぱり無縁の力には興味がある。


長い間、私は無縁に寄り添おうと、適応しようとしてきたような気がする。けれど、そういうことは少なくとも吹っ飛んだ。というか、そういうものをふっ飛ばそうとあがいてきて喧嘩の応酬になっていたのかもしれない。


そして、確認できてよかったことは私も隆も相手に同一化したくないということだった。
同一化したくないという点では一致しているけれど、同一化するために同一化したくないと言っているわけではないと思えるので、非常にほっとする。