まるネコ堂にて。

2015年7月31日金曜日

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数日前から隆が書生をやりに東山の和室に行っていて、まるネコ堂は静かだ。

ある日、東山の和室で1泊か2泊して帰ってきた隆の話を聞いて、「書生みたい」と言ったら、今度は本格的に書生をやりに出かけていった。「書生みたい」ってなんだかわからないけど、生きてる書生を見たことがないので、随分前に読んだ夏目漱石の小説に出てくる書生のイメージだ。

でも、「書」くことに「生」きるってかっこいいじゃないかと思い。
ただ、そう書いては見たものの、夏目漱石の書生ってそんなにかっこよかったっけ。


邪魔する相手も、邪魔される相手もいないので考え事がしたい放題で、そういうところは旅に似ている。旅というと、交通費と宿代は払うものの出先でさほどお金があるわけでもないので、一度お金を払えば1日いたい放題の美術館に座ってたり、街を歩き続けたり、寒ければタダで入れる教会で一日座ってたり、たまにペンとノートを出して思い浮かんだことを描いたり書いたりしていた。


気が付くと、考えすぎてメールの返信ができなくなっていて、そのうち、電話ならなんとかなるかもしれないと思ってすると留守電で、どうしようもなくなってまた放置。


日が暮れるころに体を動かしたくなって外にでる。
隣のおばちゃんが花を詰んでいて、
「こんばんは」
「久しぶりやな。元気やったか」
「げんきです」
「よかった」
よかった。と言われるとなんだか嬉しい。今夜、孫が急にやって来るというおばちゃんは、そんなん言われても大変なんて言いながら、やけに嬉しそう。


そういえば、最近気づいたことがあって、それは培ってきた関係性にいろんな期待をのせているということだった。ある人が話をしているのを聞いていて、その時はとにかく聞こうという気になってほとんど聞いていた。だんだん疲れてきて、なんで疲れてきたんだと思う。だんだん反論したくなって、なんで反論したいんだと思う。「いやいやそうじゃなくて、こういうふうに考えたらあなたの人生こういう風に見えるんじゃないですか」なんてことを言いたくなっていた。

そんな反論を全部押さえつけて聞いていたら、だんだん自分のことが見えてきて、目の前のこの人が言っていることが、この人はこうであって欲しかったという勝手に自分が作った像とあまりに違うから、なんとかそういう人だと言わせようとしてたんだなと思った。

「不幸だ」というその人の言葉を聞いて、そうか私はこの人に「幸せだった」と言って欲しかったのかと気づいたのは、這うようにして、もちろん立って歩いてるんだけど、家を後にしてからだった。

これはすごいことが起こったと思って、誰かに話をしたくなっていたけど、上手く言える気がしなくて、なかなか言えず。結局、今書きたくなって書いてしまった。


今日、夕方書生に会いに行こうと思う。
明日は、雪駄の会でもっと多くの人に会う。

ほとんど人と会わないと、この4日間ほどは全て溶け合っていて時間の軸がよくわからない。