でも結構大事なことを書いたように思っている。
「子どもがいるのだから〇〇は必要だ、◯◯がないと大変だ」という言い方は何通りもあるけれど、その中の一つに「車がないと大変だ」というのがある。
うちには車がないので、2歳の子どもをつれての散歩や買物はたいてい歩きだ。
新は、まっすぐ歩かない。ウロウロする。それに小さいから、車から見えにくい。
正直言って、2歳の子どもを道をつれて歩くのは大変だ。公園へ行くのに、電車を見に行くのに、スーパーに行くのに、危険を感じながら、長い時間をかけて行くことになる。
「だから、車が必要なのだ」と言われたら、そういう方法もあるにはある。
でもやっぱりそれだけではつまらない。
いつもいつも車に乗せて新を移動させるだけなのか。
家から公園へ、公園から家へ。家からスーパーへ、スーパーから友人宅へ。
それがすべてになってしまうとつまらない。
道をふらふら歩いているのだって本当は楽しいはずで、生きることの選択肢にいれていたい。
車が減れば、道を歩くことはもっと楽しいことになる。
「だから、車が必要なのだ」と言われたら、そうやって多くの人が車に乗るから余計に道を歩くことが大変なのだという側面も見ないといけない。
車を全否定するつもりはまったくない。タクシーも含めて、必要を感じたら乗る。
もし、道を歩くのが大変だからと、いつも車に乗るのだということになってしまったら、車に乗る自分自身が更に歩きにくい道を作ることになる。車に乗る理由を自分自身がさらに強化することになる。本当は道を楽しく歩きたかったとか、そういうことを考えないといけない。
もう少し車が減って、歩きやすくなればいいなと最近強く思う。
長々と書いたけど、今までの文章は今日になって改めて書いたものです。
筋トレで書いたものは下記です。
・文章筋トレ60分+少し修正
休日の午前は、天気が許せば新と散歩に行く。「買い物散歩」とよんでいる。何度か一緒に牛乳を買いに行ったからだろうか。「ぎゅうにゅうかいにいこう」と新が言うようになった。休日でなくてもそう言っている。実際に行けるのが休日だというだけ。「今日は行けないよ」「今は行けないよ」とそれ以外の日に理由をつけて言っているうちに、「ぎゅうにゅうかいにいこう」「あしたいこうー」というようなことを、曜日に関係なく言いはじめた気がする。新にとって今やりたいことは、どれくらいかなっているのか、よくわからない。
午前9時半前後、「買い物散歩」が始まる。左に行けば車が多い。右に行けば車が少ない。どちらにいってもスーパーへの距離はさほど変わらない。そんなことは私はよくわかっているが、新がいつも右に行ってくれるわけではない。むしろ大概左を選ぶ。理由は説明し続けているが、あまり反応がよくない。
新は道を歩くのが非常にゆっくりだ。それだけで、一緒に歩く私の忍耐は不思議と削られていく。私の方はスーパーに行くという目的で駆動していて、新の方は一応あるにはあるけれど、それより重要なことが起こっていく。花を見たり、たぬきを見たり、動かないショベルカーも大好きだ。車が来ると、「かべかべぺったん」と壁に張り付いて車をよける。そこまでいいのだか、延々ぺったんし続ける。「くるま、くるからー」「あぶないねー」「ぺったんしてー」お誘いまでくるが、全く車は来ていないということが結構ある。ようやく歩く気になった頃に次の車が来て2巡目が始まって、笑ってしまうが、がっかりもする。
マンホール踏みをして、坂を下っていく。これは私も結構好きだ。次のマンホールを探し進んでいく。もともと前へ進むために提案した遊びみたいなもので、気に入ってくれた。スーパーへ近づいていく。それなのに、マンホールは道の真ん中にある。車が来ればよけなければいけない。楽しそうにマンホールを踏んでいる新を無理やり抱えて、端によったり、手を引いて連れて行く。それも5分や10分に一度ならいいのだけど、適度に30-40秒時間を開けて10台も20台もくると苛立ってくる。車にこれほど苛立ちを覚えたのは初めてだった。楽しく遊んでいるのに、なんでこっちがよけないといけないのだ「お前ら全員迂回しろ」と心の中で叫んでいたが、轢かれると大変なのでこちらから避けてしまう。
どうやら、この時期車のストレスは相当なものになっている。「買い物散歩」は最近、2時間半程度。新が進まないこと自体は慣れてきたけれど、2時間半新を車から守る集中力を維持することが大きな懸念になってきている気がする。ハイストレス状態から脱したいから、早く進みたいくなり、結局ゆっくり進む新を促すということが後半に向かって起こりはじめる。行けるところまで行って、スーパーにたどり着かずとも帰ってくればいいのではないかというのも現実的ではなく、「ぎゅうにゅう」を買わないままに納得して帰ってくるわけでもない。それでも、私が車に注意し続けるのが無理だと判断したら、泣きじゃくる新を無理矢理に連れて帰るほうがいい場合もあるだろうし、タクシーを拾うという方法もありうる。
ベビーカーを押して萬福寺まで行って、車のないところだけで遊べはいいのではないかとも考える。しかし、時間さえかければ1キロでも2キロでも自分で歩いていく新を、ベビーカーで移動させるのも、自分のストレスを減らしているに過ぎない。道自体がきらいなわけでもない。しかし、そうやって道には誰もいなくなったのかもしれない。
休日の午前は、天気が許せば新と散歩に行く。「買い物散歩」とよんでいる。何度か一緒に牛乳を買いに行ったからだろうか。「ぎゅうにゅうかいにいこう」と新が言うようになった。休日でなくてもそう言っている。実際に行けるのが休日だというだけ。「今日は行けないよ」「今は行けないよ」とそれ以外の日に理由をつけて言っているうちに、「ぎゅうにゅうかいにいこう」「あしたいこうー」というようなことを、曜日に関係なく言いはじめた気がする。新にとって今やりたいことは、どれくらいかなっているのか、よくわからない。
午前9時半前後、「買い物散歩」が始まる。左に行けば車が多い。右に行けば車が少ない。どちらにいってもスーパーへの距離はさほど変わらない。そんなことは私はよくわかっているが、新がいつも右に行ってくれるわけではない。むしろ大概左を選ぶ。理由は説明し続けているが、あまり反応がよくない。
新は道を歩くのが非常にゆっくりだ。それだけで、一緒に歩く私の忍耐は不思議と削られていく。私の方はスーパーに行くという目的で駆動していて、新の方は一応あるにはあるけれど、それより重要なことが起こっていく。花を見たり、たぬきを見たり、動かないショベルカーも大好きだ。車が来ると、「かべかべぺったん」と壁に張り付いて車をよける。そこまでいいのだか、延々ぺったんし続ける。「くるま、くるからー」「あぶないねー」「ぺったんしてー」お誘いまでくるが、全く車は来ていないということが結構ある。ようやく歩く気になった頃に次の車が来て2巡目が始まって、笑ってしまうが、がっかりもする。
マンホール踏みをして、坂を下っていく。これは私も結構好きだ。次のマンホールを探し進んでいく。もともと前へ進むために提案した遊びみたいなもので、気に入ってくれた。スーパーへ近づいていく。それなのに、マンホールは道の真ん中にある。車が来ればよけなければいけない。楽しそうにマンホールを踏んでいる新を無理やり抱えて、端によったり、手を引いて連れて行く。それも5分や10分に一度ならいいのだけど、適度に30-40秒時間を開けて10台も20台もくると苛立ってくる。車にこれほど苛立ちを覚えたのは初めてだった。楽しく遊んでいるのに、なんでこっちがよけないといけないのだ「お前ら全員迂回しろ」と心の中で叫んでいたが、轢かれると大変なのでこちらから避けてしまう。
どうやら、この時期車のストレスは相当なものになっている。「買い物散歩」は最近、2時間半程度。新が進まないこと自体は慣れてきたけれど、2時間半新を車から守る集中力を維持することが大きな懸念になってきている気がする。ハイストレス状態から脱したいから、早く進みたいくなり、結局ゆっくり進む新を促すということが後半に向かって起こりはじめる。行けるところまで行って、スーパーにたどり着かずとも帰ってくればいいのではないかというのも現実的ではなく、「ぎゅうにゅう」を買わないままに納得して帰ってくるわけでもない。それでも、私が車に注意し続けるのが無理だと判断したら、泣きじゃくる新を無理矢理に連れて帰るほうがいい場合もあるだろうし、タクシーを拾うという方法もありうる。
ベビーカーを押して萬福寺まで行って、車のないところだけで遊べはいいのではないかとも考える。しかし、時間さえかければ1キロでも2キロでも自分で歩いていく新を、ベビーカーで移動させるのも、自分のストレスを減らしているに過ぎない。道自体がきらいなわけでもない。しかし、そうやって道には誰もいなくなったのかもしれない。
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