「よかった」と言われても嬉しくないこともある。

2019年3月7日木曜日

子どもとの生活

新(あらた)のアトピーは薬がある程度効いているので肌は見た目にはきれいだ。
治療を始める前を思えばよっぽどきれいだし、肌は荒れ気味だが治療する必要はないくらいの赤ちゃんと比べてもずっときれいだと思う。

なのに、「きれいになってよかった」と言われてもなんだかムカつく時があった。
何度も書くけど薬が効くことはいいことだと思う。

もうちょっと追加すると、
「ほかの赤ちゃんをみるときれいなのに、新をみるとちょっとかわいそうやなー大丈夫かなーとおもってて、でもきれになって本当によかった」とニコニコするのを見て、なんか嫌な気分になっていた。「ほかの赤ちゃんをみるときれいなのに、新はそうではなかった」の部分を何度も繰り返す。

痒がらない新をみて自分自身ほっとするし、薬が効いてよかったと思うのだ。

でも、後からやっとわかったことだけど、こう言う人は、アトピーであるということをダメなこととして認識していて、それが人並に改善されたというふうに見ているのだと思う。その人の中には、アトピーと比べる正常な大勢がいて、そこから漏れた異常なアトピーがいる。その異常な状態の人が、自分の身近な人だということが受け入れがたいかのように見える。見た目がきれいになったということで、正常に入れた、と喜んでいるように見える。

わたしにとっては、痒みに苦しまない状態になっているということがひとつの嬉しさだったり、いろんなことをやりながら薬がちょっとでも減っていくことが不安を持ちつつもうれしかったりもする。具体的なことだ。だから、大勢のみたこともない人たちと比べられて遜色がないからよかった、と言われるのは思いもかけない「よかった」だし、一体何を見てるのだろうと思う。


同じような構造は多分いろんなところで横たわっている。
自分にとってのなにかであることが、そういうふうに比べられた中での良し悪しの話にされてしまうことには悲しさや、憤りがつきまとう。