国立国際美術館「ボイス+パレルモ」展。

2021年10月14日木曜日

美術館・展示


ボイス(1921-86)は何度も何度も名前を聞いた。
なのにあまりちゃんと調べたことがなかった。この機会に是非知りたいと思った。
パレルモ(1943-77)は全然知らなかった。

意外に面白かった。
現代美術がわかりにくいという経験は自分にもあって、そういう経験をしそうな作品だなと思ったから、楽しめるかなと思っていた部分があったから。

すべてがクリアになったわけではないけど、面白かった。
今回の展示は説明もよかったように思う。音声ガイドは借りなかったが(借りればよかったかもしれない)、章ごとの壁面への説明の他に小さな冊子でも作品ごとの説明をしてくれていた。
多分、通常はこれも壁面に貼ってあるたぐいの説明だけど、これが手元にあるとゆっくり読めて違うもののように感じた。


ボイスとパレルモ、全体の共通点としてわかりやすく提示されていることは美術の枠を広げようとしたこと。

通常、美術作品では使われなかった素材を使ったことや、通常美術(芸術)行為とされてこなかった行いも芸術だとして含めて行こうとしたことだ。

ボイスでは、脂肪やフェルト(チョコレートなんてものも)を使ったことは象徴的で、「腐るやん!虫つくやん。」と思って普通使わなかったものが作品として認められる道を作ったんだと思う。

それはもうちょっと言えば、西洋美術が「変わらないもの」に価値を置いたのに対し、脂肪やフェルトあるいは鉄などの錆びる金属という「変化の大きいもの」、「変化というもの」の価値を美術の文脈の中に見出そうとしていたように思う。

それ以前の美術作品であれば、退色等の経年の変化をしたときに、完成時の状況に戻そうと修復する。しかし、ボイスの作品がそのように想定されているとは思えない。完成時からの変化も含めようとしているように思う。
変化を単純に劣化と捉えない視点はヌメ革の経年変化を面白く思う視点と似ているように思うので興味がある。

またパフォーマンスは、ボイスだけでなく同時多発的に起こっていたと思うけれど、いわゆる「作品そのもの」は残らないけれど、「何かを行ったこと」、「何かが考えられたこと」その記録を残すということ、記録自体が作品になるということを押し進めた人に思えた。


パフォーマンスが派手なボイスに比べ、パレルモはもうちょっと美術らしい枠にアプローチをかけるように見える。例えば、キャンバスの形をいびつに変えてしまうとか、キャンバスに布を張っただけのものも作品だと言ってしまうとか。

そういうことをする理由の一つは、伝統的な絵画が四角い枠の奥に向かって空間を構成するということに対して、単に実際にある表面の平面性をみようという流れとその発達の中にある程度あるように思う。絵画に空間を見るか、あるいは表面の平面性を見るか、そういうことが西洋美術の中で重要だということはなかなか理解できなかったが、どうやらそうらしい。多分、日本人にとって絵画はそもそも奥行きの表現ではなく平面なんだと思う。

例えば、布を張った作品には絵としての立体的奥行きはなく、布の平面をただ見るしかなくなる。
しかも、それはそれまで絵画作品とは言われてこなかった買ってきただけの布だとしたら、いったい壁と布の部分の違いはなんなのか。作品とは言えないのではないか。そう思わざるを得ないギリギリのところまでいくように思う。

多分、そういうギリギリのところで、パレルモの作品が作品だと思えるのは、色やテクスチャーの、構図の美しさだと思う。パレルモの作品は、抽象的で、すぐに意味がわからなくても色がきれいだ、なんとなく見ていたくなるという魅力がある。そういう多くの人にとって普遍的な、絵画的要素で作品の片足を支えながら、もう一方で、伝統的には絵画(作品)と認識されなかった要素・素材を絵画に取り込み、絵画の枠組みを変化させるているのではないか。一要素としては。


パレルモで言えば、《コニー・アイランドⅡ》(1975)という作品が好みだった。
アルミの板にアクリルで描いた抽象画だ。ここで画像が見れる。

美術的な挑戦は読み取れなかったけど、アルミ板にのせたアクリル絵の具の発色が妙に魅力的で、単純な色で構成された4枚の絵から、ある種雰囲気、アイランド、観光地、リゾートといったそういう雰囲気が感じられた。こんなに抽象的なのに現実感があった。



ボイスにまつわる文章を読む中で、ボイスは人々がなにかを行うことで社会が変わる、その変化が社会に彫刻されると言っているように思う。彫刻という言葉で行為は芸術になる。何かをすると、生きていると、いくら些細に思えても社会に影響する(社会を彫刻する)。人々自分がどんなにちっぽけに思えようとも社会に影響を及ぼすという、そのこと自体をとりだそうとしていたのかもしれない。
自分にとって絵を描こうとすることの中には、自分が考えて変わっていくということが含まれている。それは自分の言い方ではいきなり社会とは直結しないが、それが自分の内にとどまらず結果的に、他人に影響を及ぼしていくと思っている点で、なにかボイスと共通しているとこもあるのかもしれないと思う。もしかしたら、そのように芸術をとらえるようになっていることがボイスやその時代の芸術の自分への回り回った影響だったのかもしれない。



ちょっと余談。もう一つ気になったのは、ボイスが時折「発電所」をテーマにしていることだ。
ボイスは発電所のことをどう考えていたんだろうか。そのへんはまた考えたい。