新(3才)と一緒に行ったため、ほとんど見れず仕舞いだった。
もっと見たかったので、さすがに最初は落胆した。
でも面白かったこともあったので、2-3日すると行ってよかったと持ち直している。
無料で済むならありがたい。イアフォンがなかったのでその場で聞けなかったけど(多分あっても聞けなかったけど)、家でちょっと聞いてみた。テキストがあるのもいい。
以前から、京都近代美術館はこういうのちょろちょろやってた気がする。
作品は限定的にしか見れなかったけど、以下の二つの作品はゆっくり見た。
笠木治郎吉 《提灯屋の店先》河久保正名 《提灯屋》
《提灯屋の店先》という絵は、提灯屋の軒先みたいなところで職人(でありおそらく一家の父親)が提灯をつくっている、その横で子供と奥さんが提灯をあかるく飾っている。
《提灯屋》は、少し薄暗い提灯屋の店の中で、職人がひとり提灯を作っている。
二つの作品は、並んで置かれていた。
《提灯屋》を見て「なんでひとりなん?」とあらたが聞く。
《提灯屋》は提灯を作るこの職人の雰囲気に集中したい。技の重み、手つき、集中した空気感。背景に提灯が多数描かれているが、全体に暗めの色で空気に重さを感じる。
職人に、職人の力量に集中するために一人のほうがよかったのだろう。
《提灯屋の店先》は、描きたいものが違う。提灯屋の店先の賑やかさ。家族の関わり合い。仕事と家族のかかわり合い。そこにある種の暖かさを描こうとしている。《提灯屋》と違って、何人かいないとこういう雰囲気はなかなか出せない。
どちらも「提灯」を描いている。提灯というもの自体の意味とか象徴として伝えるニュアンスは、どちらも共通して描きたいわけだが、それを通して描きたいことは全然違う。
説明してしまうと当然のことだけど、あらたとゆっくり見ているとそのことがよくわかった。
外国人が見た明治の日本、外国人へ見せたかった明治の日本が描かれています。(美術館サイトより)
あらたは今かなりいろんな質問をしてくる。
それに答えながら見ていくと、「見せたかった明治の日本」はなんなのか具体的に言語化が促進される。
「これどこ?」
「だれ?」
「富士山いっぱいあるな。」
「なにしてんの?」
今回絵を見るチャンスは、そうやってあらたが興味をもって絵を見ているときだけだった。
興味を持ち続けてくれたら見る時間が伸ばせるに違いない、とそれに必死で答えようとしてた。結局そんなにたくさん見れたわけではなかったけど、そうやって見てると見れたものは割とちゃんと見れたし、面白くみれたように思う。その時は必死でよくわからなかったけど、振り返ってみると楽しかった。
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