6月25日開催。言語美ゼミ第3シリーズ第9回。

2021年6月25日金曜日

言語美ゼミ第3シリーズ


今日は「第Ⅴ章 構成論 第Ⅱ部 物語」。

吉本は詩と物語の違いをそこに<仮構>があるかどうがで説明する。
詩には<仮構>がなく自分と自然、自分と他人といった現実の関係を「じかに」文字で表現する。
物語では、おそらく散文ではと言ってもいいと思うが、そういった現実の関係から切り離して、<仮構>の中で、現実とは違う仮の構造物の中で、表現するというように区別する。<仮構>の中でとはある設定の中でと言ってもいいかもしれない。その<仮構>自体も表現の中にあると思うが。


これは結構びっくりする認識だった。
散文というものはもちろん小さいときから書いてきた。

それを書くには多かれ少なかれ、現実の世界から切り離して、それ自体について考え、書こうとするものに対して状況を与える(<仮構>する)ということをやってきたということを考えたからだ。

そんな高度なことはやってこなかっただろう、とは思えず、やってきたんだろうと思う。
意識的にではなかったとしても。
どこへ行ったとか、誰といったとかそういうことをわざわざ説明すること自体が<仮構>を作る構造そのものだと言えそうだ。もちろん<仮構>には様々なものがあるだろう。


少し話は飛ぶようだだけど、詩は「じかに」「直接的に」、物語は間接的に、現実の関係と切り離してという特徴をもう一度思い出す。
そして、物語文学(書き言葉)の成立の前には、口承物語があったことを想定することができるし、おそらく実際あっただろう。口承物語の存在することは、同時代に書き言葉での物語あったことは意味しない。
ひとびとは、あるいは現在の小説の常識からかんがえて、書き言葉の表現のうえで、作り話をつくりあげることが難しかった時期が、物語の成立のはじめにあった、ということを不思議におもうかもしれない。だかたしかに、そんな時代はあったのだ。[102]
文学の中では、詩は現実との関わり直接性を物語より保っている。
口承物語というのは、声である以上ある人から発せられるという意味で、その人とどうしても地続きになってしまう。これを詩と同様の現実の世界との関係ということはできないかもしれないが、「文字」という何からも切り離され表現媒体ではなく、誰か生身の人間が言っているからお話をお話というまとまったものとして理解して聞くということができたのかもしれない。

次回のゼミは「第Ⅲ部 劇」だ。
劇で演じている役者は、「じかの」人間ではない。
普通に生きてきた生身の人間ではない。
今回の吉本の言い方を借りれば<仮構>された人間とでも言えそうだ。

舞台に誰かが立った時、なにかが置かれたとき、それを舞台上のものとして見ることができる。
でも、そんなことをするのが難しい時期があったのかもしれないし、あっただろう。

文字での表現が、現実の関係を表すものから離れていったように、
人間の身体を使った表現も、その人の現実での関係をから離れて成立するという難しい過程を経たのかもしれない。

まだちゃんと読んでないのでちょっと勝手なことを書いている。
物語の中に<仮構>があるという今回の部分を読んで「劇」を思い浮かべた。現実とは違う舞台上でなにかが繰り広げられるイメージだ。
構成論として、物語の次に劇がくるということにどういう意味があるのか楽しみに読もうと思う。