自分の文章を書くための通年講座 2019参加レポート6の2(第5回言語美ゼミ 2019/06/16 開催)

2019年6月20日木曜日

書くこと

今度はゼミ中ではなくて、ゼミ後に思ったこと。
なんか実質ゼミレポートじゃなくなってしまった。

ゼミの参加者はレジュメが提出できる。通年講座ではないこれまでのゼミでは「できる」という感じが強かったと思う。通年講座になって講師もいるわけだし随分提出物的な色合いを見せている。そういうふうになると多分、課題だからやっている、提出物だからやっていると言ったほうがよいのではないか、安全なのではないかというような気分がじわじわと自分に侵入していたかもしれない。

ゼミ後、ゼミとは直接に関係ない話をしていて、知人がある人となにか一緒にできないか考えているといっていたときに本を読んでレジュメを書いてもらうことをおすすめしていた。それに対して「いやそれがその場合は面白いかはわからない」と突っ込みをうけて、確かにそうだと思ったが、レジュメを書いて少なくとも自分は面白いと思っているということがよくわかった。

毎回、唸っていたり、書くことが見つからなかったり、書いてもさほどのものにはできなくて恥ずかしいと思ったりと一見ネガティブなこともあり、それにある種の苦しさはあるが嫌というわけではなく、全体としては書いて楽しい。わりかし良いことが起こる。思えばもう何十というレジュメを書いてきた。「自分がまるネコ堂在住だし、ほとんどのゼミは家でやってるし」とか多分微妙に外部に理由をおいて好きということを見逃してたかもしれない。影響はあるけど、好きでもないとこんなことしない。

提出期限があるようなことは、仕方なくやっていると思いがちかもしれない。こうやって好きだ、面白いと気づいてしまうと俄然楽になる。提出期限があるということと、それをやるということは影響し合いながら別の位相で働く。

学校でやっていたことの多くはそんなふうに惑わされていたかもしれない。好きなことが、好きなのか言われたからやっているのか見分けがつきにくくなる。好きでやっていることがやらなきゃいけないことに変化するのには「提出期限までにださなきゃ」や「仕事でやらなきゃ」という言葉がおおきく影響しているように思う。「しなきゃ」という自分や周囲が頻繁に発するの言葉の方からものごとが見えるようになってしまう。まあ、この出さねば困ってしまうということ自体はある瞬間には事実になってしまうので、特に切羽詰まってしまうと使ってしまいがち。でもこの提出期限が出現したことは「レジュメ書こー」「なに書こっかなー」と思ってるあの楽しげな感じから出発しているように思う。

子どもだったら望まない提出期限もたくさんあるだろうけど、もうこの年になるとその提出期限に向かって舵を切ったのは自分だったのか、とここまで書いてきて気づく。