思い出の現時点での解釈。

2020年3月22日日曜日

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小学校3年生くらいから高校に入って少し経つまで書道教室に行っていた。

結構好きだった。
いろいろ習い事はしたけど、続いたのは書道と油絵くらいだと思う。油絵の方は小学校1-4年生くらいまでで、こちらは先生が妊娠して教室が終わってしまった。そういうことがなければきっと続けていた。

書道は今でも自分の基盤に食い込んでいる感じがする。

林間学校かなにか学校の宿泊行事で帰ってきたばかりの午後にもいつもどおり教室に行った。先生は行事のことは知っていて、だから来ないと思っていたのか、びっくりしていたがとても嬉しそうで、わたしは驚くことは多少理解できてもなにを嬉しがっているのかよくわからなかった。

高学年になるともっとうまくなりたいと、家でも練習することも出てきた。
やっぱりなんだか先生は嬉しそうだった。でも、それがなぜだかはよくわからなかった。

最近になって、誰かの好きなことに関われるのは幸せなことなんだろうと思うようになってきた。やっとという感じだけど。

自分の専門分野に関して言えば、相手がそれが好きが興味がないか嫌いかに関わらず興味を持ってもらうことをしたいというのは当然だと思うけれど、たとえそれなりに興味を持ってもらうことに成功したとしても、自分からそれをやりたいと思ってもらうのは、難しい。なかなか起こらないことなんではないか。自分だっていろいろ習い事はしたけど、そうなったのはわずかだ。

教室をやったりしている友人の話を聞いたりして、そんなことを思うようになった。
教えるという立場は今はまだちゃんととっていないけれど、自分が話した人が、関わった人が、そのことを自分なりに挑戦したり楽しんだりしているのを見るのは嬉しい。

それでもわたしは高校でクラブに入って、そっちの方が大事になって書道教室を辞めた。一生やっていけることなんてほんとに少ないのだろうと思う。


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○7月28日ー8月1日:言葉の表出、夏合宿2020
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2019年6月1日発行雑誌「言語6」に寄稿文が掲載されました。