「ない」への道は、「ある」ことへの意識から。

2015年2月15日日曜日

家族と住まない生活がしたい。一人暮らしをした家。

まるネコ堂ゼミで読んでいる「無縁・公界・楽」。前回のゼミで気に掛かっていた部分があった。

「私有」のかげに、いつも、ひっそりと、あるいは怒りの、あるいは怨みの色をうかべて立つ、「無主」「無縁」の姿を見て、幽霊でも見たように、おそれおののくことはなかろう。「有主」—私有の世界にもっとどっぷりつかろうというならばともかく、そうでないならば、われわれは恐れることなく、その姿を直視する勇気をもたなくてはならぬ。[49]

『 「無主」「無縁」の姿』とはいったいどのような姿なのか。あまり書かれている感じがしない。だから「おそれ」がなんなのかわからない。どんな勇気なのかわからない。

ゼミでの話を思い出しながら考えていると、自分自身の「おそれ」が見えてきた。円坐に行くパートナーを邪魔したくなったこと。「無」目的な場所に行く意味のわからなさ、ある種の興奮状態で帰ってくる意味のわからなさ。その姿に「おそれ」があった。そして、おそれがあるからわからない、わかろうともしないのだった。

不安を解消するために、自分の中にある「そうぞうしい音」をたてる。人の行動を遮るざわついた気持は「おそれ」から来ていることがわかると、その「おそれ」を直に扱うことができるようになる。

自分の寄って立つものを持たない人たちに「おそれ」を抱く。
それは、「目的なく人といる人」「定職を持たない人」「人生の目的を持たない人」「掃除機を持たない人」だったりする。自分が寄って立つところが共有されない人たちは、何をどう考えているのか全然わからない。

その「こわさ」は、多くの場合自分自身へ向けられるのではなく相手への攻撃へと向かう。
「そんなことしてなんになるのか」「あなただまされているんじゃないか」

自分の方の「おそれ」を見ようとすると、「おそれ」がなくなり「おそれ」によって隠れていたものがひょこひょこ顔をだす。それはなにが起こるかわからないことへの不安だったり、嫉妬だったり、実はとても魅力的なものが隠れていたりする。


この文章を書き始めるとき、おそれがないことによって視界がクリアになったこと書こうと思っていた。それについてはぱーちゃんが書いていて、そのことに書きながら気づいた。

そして、もう一つ面白かったのはその直前おそれが「ある」ことを強烈に意識したことだった。

「このざわついた気持がおそれなのか」。それがわかると、「おそれ」について話せるようになる。

「掃除機ってなんであるんだろう。なくてもいいのではないか。」
ただあったものが自分で選んで「ある」ように出現する。

自分にもともと「ない」ものもたくさんある。
けれど、「ある」から「ない」への道は強烈な「ある」への出会いから始まってきたように思う。あたりまえにアメーバーのように生活に溶け込んだ「ある」ではなく、輪郭を持った「ある」が見えること。それが見えるとやっと格闘できる感じがある。